この連載記事の第一回・第二回で詳しく紹介したように、サヴィニャックが活躍した1960年代まで、ヨーロッパの大都市、とりわけパリでは、「外壁に糊で貼った巨大ポスター」を至るところで見ることができました。
では、こうしたポスターは、いつ頃から収集・保管、調査・研究、展示・公開の対象――美術館、博物館、資料館、図書館などに帰属する「作品・資料」になったのでしょうか。
それは、絵画や彫刻に代表されるアート(純粋美術)、また、芸術性の高い伝統的なものつくり(工芸)とも異なる「近代の産業・社会に供する創造的な事物(デザイン)」が領域として確立された19世紀後半から20世紀初頭に遡ります。言い換えると、デザインの黎明期には既に、ヨーロッパのさまざまな国・地域において、その頃は「産業工芸(インダストリアル・デザイン)」「商業美術(グラフィック・デザイン)」と呼ばれていた分野の成果、すなわち「製品」「広告」が、デザイン・ミュージアムの始まりこと「応用美術館」「美術工芸館」で管理されるようになったのです。専門の施設がない場合、博覧会や他の展示会場でお披露目があり、いわゆる美術館、歴史博物館などにもデザインの「作品・資料」が少しずつ仲間入りを果たしていきます。
フランスに目を向けると、1877年に「パリ装飾美術館(Musée des Arts décoratifs, Paris)」が設立され、1905年になって現在の場所に移ります。ポスターに特化した施設については、1898年という早い時期に計画が提案されたものの、実現に至ったのは80年後、1978年に「パリ・ポスター美術館(Musée de l’Affiche, Paris)」が開館します。ちなみに、栄えある開館告知ポスターは、サヴィニャックが手がけました。その後、名称が「パリ広告美術館(Musée de la Publicité, Paris)」と変わり、一時的な閉館を経て、装飾美術館の広告・グラフィック部門として再開しています。
あわせて、消費文明、大衆文化、複製芸術が発展した20世紀前半の都市には、ポスター以外の広告――チラシやビラは元より、看板、垂れ幕、ショー・ウィンドー、アドバルーン、電飾、映画の挿入映像、車体に取り付けられた宣伝物などがあふれ返り、その喧噪のなかで、A. M. カッサンドル(1901~68年)が指摘した「高速で移動する人々の視線を瞬時に射止める」技術を、ポスター作家は懸命に模索します。このような状況で、ポスターが大型化し、より単純で印象的な表現に傾斜するのは、必然の為せるわざ、として良いでしょう。国・地域によっては、掲出に関する規制があったので、ヨーロッパであっても、建造物のそこかしこではなく、特定の場所、広告塔などにポスターを貼り出す方法が採られました。そうしたなかでパリは、常に街路をポスターが彩り、ポスターの魔法によって輝いた都市であり続け、この情景が、佐伯祐三に代表される同時代の画家のモティーフにもなっています。一方、建築・都市のあり方が根本的に異なり、江戸年間の高札に由来する掲示板が発達したわが国は、明治・大正・昭和戦前期、そして今日も、ポスターのスケール感、掲出が欧米とは相違します。つまり、ビルが建ち並ぶ近代的な都市――東京や大阪であっても、かつて商店や住宅の多くが低層の木造だったため、その壁と掲示板に、小ぶりのポスターを画鋲で留め、表通りではむしろ、ショー・ウィンドーの背景として掲出しやすいよう、画面の上下に金物を取り付けるタイプのポスター(昔のカレンダーと同じ)が主だったのです。