TOPICS025:サヴィニャックの色――黒く塗られたパリ(エピローグ) 15.06.2018

サヴィニャックの作品には、自身が生まれ育った国と街、その文化的風土を象徴する「色」が通底しています。ある時は、「青・白・赤」のトリコロールであり、別の場合、さまざまな色合い・諧調の「ブルー」として出現しました。これらと、広告される対象を示し、クライアントに固有の色の組み合わせは、極めて率直かつ明快です。色使いにおいても、訴求したいモノ・コトを「単にグラフィック・デザイン上のあり触れた構成パーツとして扱わない」ことを実践したので、必然的にカラー・スキームは、ある種のパターン化を呈します。

たとえば、「濃色+純色」「涼し気な各種のブルー+暖色」「イメージを鮮明に縁取る黒の線」「画面に締まりと広がりを与える白の面」が典型で、逆に「モノクローム(・彩度の低い色)一辺倒の構成」は極めて稀でした。もちろん、モノクロームを完全に排除したわけではなく、ポスターという舞台の主役であるモノ・コトに「命を吹き込む」ために、黒バックの作品も手がけています。鮮やかなの毛糸は、背景が黒だからこそ見映えがし、柑橘風味の清涼飲料の美味しさ、ポピーの種が約束する花の美しさも、黒バックがために際立つのです。

そうしたなかで、異彩を放つのが「黒く塗られたパリ」こと《セーヌ左岸高速道路反対》(1972年)に他なりません。

まるで鼠や虫の大群を思わせる黒い自動車の渦に、傾きながら埋没しそうなノートルダム大聖堂。そのファサードと塔屋も、排気ガスで汚されたかのようにどす黒く、パリの「白い貴婦人」は見る影もありません。塔から突出する諸手も血色が悪く、助けを求める様子が如実に窺われます。サヴィニャックは何故、人生の4分の3を過ごした「わが街・花の都」を、トリコロールパリジャン・ブルーではなく、さりとてパターン化された「黒+明るい色」にも則らず、このようなスタイルで黒々と塗ったのでしょうか。このシリーズは、実は同じ絵柄でありながら、異なるキャッチフレーズを付した別作が知られており、
①1972年の原画《NON A VOIE EXPRESS》(高速道路に反対しよう)
②1972年のポスター《NON A L’AUTOROUTE RIVE GAUCHE》(セーヌ左岸高速道路反対)
③1972年のポスター《AUTO-DÉFENSE DE PARIS|GALERIE ROCHAMBEAU》(「パリの街を自動車から守ろう」展、於パリ、ギャルリー・ロシャンボー)
④1973年の復刻ポスター《NON A L’AUTOROUTE RIVE GAUCHE》(セーヌ左岸高速道路反対)
の順に展開されました。
時あたかも東京に首都高速道路が長期建設された(1959年:首都高速道路公団設立→1962年:京橋~芝浦が初開通→1960年代:特に東京オリンピックの前後に工事・開通ラッシュ→今日に至るまで新線建設が続く)のと同じ頃、パリにおいても自動車専用道路「パリ環状高速道路」の計画が進展します(1959年:パリ環状高速道路の建設が始まる→1960年代:工事・開通ラッシュ→1973年:全線完成)。このうち、シテ島にノートルダム大聖堂を擁し、その対岸に相当する大学街・高級住宅地・おしゃれゾーンの「セーヌ左岸」を通る路線については、まさに「左岸系」の文化人たちが中心となって、建設反対運動が起こりました。サヴィニャックも反対派の一員として、運動をアピールする広告の制作に携わり、その原画が①、実際に刷られたポスターは②(本展出品作品)となります。
政治的な作品が少なかったサヴィニャックにしては珍しく、《セーヌ左岸高速道路反対》プロパガンダ(特定の主義・思想を訴える宣伝活動・媒体)だったのです。当然ながら、モティーフとその表現は、他の商業・公共広告とは一線を画し、しかも「愛するパリ」の命運に関わる事柄のため、非常に特異な「黒の使い方」を試みた、として良いでしょう。絵柄こそ分かりやすいですが、それまでの「一発芸」としてのヴィジュアル・スキャンダルの作品群に比較すると、深度のある訴求力に満ちています。

サヴィニャックらしからぬ黒」を主調色とするイメージは、反対派の芸術家によるグループ展(サヴィニャックも参加。1972年11月)のポスター③(当館所蔵。本展には出品されていません)に使われ、運動としては、記念冊子の発行(1973年3月)、国外でのアピール(於アムステルダム、アンスティチュ・フランセ・オランダ。同・10~11月)と続きました。
道路計画の方は、「セーヌ左岸」の路線のみ白紙に戻され、と同時に、さまざまな立場の建築家や都市計画家から幾つもの別プランが提案されます。このことを考慮しつつ、結局のところ、道路は地下を潜らせるかたちで実現となり、地区の景観と歴史的建造物は破壊を免れます。

反対派の人々は、ポスターの復刻④(本展出品作品)を制作することで、言わば大人の決着を付けました。これには、「黒く塗られたパリ」の右下に、

金文字で「本作は、クレアシオン・グラフィーク・フランセーズ社(制作会社)による復刻版で、とりわけサヴィニャックの創造の栄誉を称える。」と記載されています。あわせて、印刷所、使用したオフセット機種、刷り色、寸法、発行日(1973年9月)、紙質、製紙メーカー、製版所、非売品であること、複製禁止の注意書きも明記。

以上を鑑みて、本展の締め括りとなる「パリ」のコーナーは、展示作品の半数をトリコロールの作品、残る半数は、モノクロームの《セーヌ左岸高速道路反対》、並びに色彩もメッセージ性も似た傾向の《ビルに気をつけろ》(1974年)で構成しました。後者は、威圧的な高層ビルの乱立で、歴史的建造物が失われる危惧を訴え、オランダの建築家レム・コールハースが同時代に発表したアンチ・モダンのドローイングを思わせます。

長い創造活動において、政治性や歴史観が希薄だったサヴィニャックですが、1970年代初頭ばかりは少し様相が違いました。1971年には、これらの味付けをした諷刺画による個展「ポスター厳禁」を開催、同名のポートフォリオも刊行し、「黒く塗られた世界・社会」を世に問います。しかしながら、「ユーモアとエスプリ」の華やぎに包まれた印象が余りにも強く、人々もそのことを期待したので、「黒による挑戦」は不評に終わり、以降、ポスター制作のあり方が「作家主義」から「アート・ディレクター制度」へ完全に移行した状況も相まって、サヴィニャックは仕事の激減を強いられました。

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