1890年代~1900年代前半(明治20年代後半~30年代後半)になると、宇都宮天主公教会(現・カトリック松が峰教会)は所在地が移転し、宇都宮における日本聖公会の伝道の種も蒔かれます。
宇都宮天主公教会の松峯町移転と初代聖堂
宇都宮天主公教会(現・カトリック松が峰教会)が河内郡宇都宮町松峯町(宇都宮市松が峰の現在地)へ移るのは、1895年(明治28)のことでした。
ここでやっと人々の活動に供し、組織の存在感とともに、キリスト教の精神性を示す固有施設としての教会(建物)に触れることができます。松が峰における初代聖堂と司祭館については、公教(ローマ・カトリック教会)雑誌『聲』313号の口絵連載「日本の公教会聖堂」に登場するため、本号が刊行された1904年(明治37)6月に完成していたのは確かと言えます。
この写真と、教会史所収の「当時の聖堂」「司祭館全景」を見比べるならば、樹木の生育状況に照らして、前者が竣工当時、後者の2カットは数年後の撮影と考えられます。
これらの写真から、初代聖堂が長方形平面の平階建で、寄棟屋根を瓦で葺き、長辺の片側中央に入口があり、この側面にポーチを兼ねたヴェランダを設けていることがわかります。司祭館は、より正方形に近い平面の平屋建とし、やはり瓦葺の寄棟屋根を戴き、少なくともその二面にヴェランダが付されるコロニアル風の造りでした。初代聖堂の外壁は大谷石積、その一部が板張で、司祭館は高い立ち上がりの基礎に大谷石を用い、躯体は木造下見板張と思われます。
二つの建物の位置関係は、今も松ヶ峰幼稚園の園庭に生い茂る大けやきの北西が司祭館、その正面と聖堂の短辺が向き合っていました。
※その頃の松峯町の教会敷地は広大で、利用状況は次の通りでした。
北(現・聖堂付近):7・8軒の長屋
東(現・司祭館付近):茶畑
南(現・いちょう通り側):桐の植林(約100本)、柿の木と竹藪
南西(同前):野菜畑
大けやき(現・松ヶ峰幼稚園園庭内)の下:山羊小屋
同・北西:司祭館と初代聖堂、両者の間は大谷石畳、司祭館の周囲にいちじくの木が多数、ぐみの木
その他:つつじの植栽(随所)、伝道士住宅(場所不明)
宇都宮聖公会講義所の開設
一方、宇都宮の聖公会は、それまで伝道士の転出・転任により、活動の一時停止を余儀なくされましたが、1904年(明治37)6月、東京府東京市深川区深川西元町(東京都江東区常盤)の真光教会(現・日本聖公会 真光教会)から伴君保司祭が着任すると、伝道の礎が確固たるものになります。
教役者としての経験が豊富な伴司祭は、宇都宮市小幡町(小幡)に居を定め、自宅2階に仮講義所を設けたのです。