建造物めぐり㊱[最終回]日本聖公会 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂

外国人建築家たちの離日と上林敬吉の戦中・戦後

 1937年(昭和12)は、本展の主役を務めてきたマックス・ヒンデル上林敬吉のみならず、国内外のすべての人々と、社会が時局の厳しさに直面した年です。7月7日に日中戦争(~1945年9月9日)が勃発すると、戦時下体制に突入するのは必至となり、キリスト教界、建築界も例外ではありませんでした。
 12月にアントニン・レーモンド、明くる1938年(昭和13)にはジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニが日本を離れます。そして1939年(昭和14)9月1日、第二次世界大戦(~1945年9月2日)の火蓋が切られました。
 ヒンデルの離日は1940年(昭和15)12月ですが、彼の場合、行先は祖国スイスではなく、シベリア経由でドイツのベルリンへ向かいます。というのもヒンデルは、その5年前に横浜の事務所を解散(1935年)して以来、日独を結ぶ国策文化事業に携わり、わが国で開催された「大ドイツ展」(1938年)のマネージャーを務め、ベルリン行はその出品物の返却出張だったからです。
 さらに翌年(1941年)、上林と聖路加国際病院増築事業(外来棟・事務部新築)を預かったヤン・ヨゼフ・スワガーが去り、12月8日に太平洋戦争(~1945年9月2日)が始まります。こうして、明治・大正・昭和戦前の教会建築を担ってきた主要な外国人建築家は、戦時下で日本国籍を得た(1941年)一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)ことウィリアム・メレル・ヴォーリズだけとなりました。

下図]終戦から半年後に上林が日本聖公会戦災復興委員会に提出した復興教会案は、立地を問わない標準化された礼拝堂兼司祭館です

上林敬吉建築設計《戦災復興教会試案》立面図[左]側面[右]正面 1946年 所蔵・画像提供:学校法人聖路加国際大学
上林敬吉建築設計《戦災復興教会試案》[左]平面図[右]仕様書 1946年 所蔵・画像提供:学校法人聖路加国際大学

 ついては、調査研究のために訪れた各地の建造物を紹介する「建造物めぐを締め括るに当たり、外国人建築家たちに鍛えられ、彼らが不在となった戦中・戦後間もない時代も「日本近代の教会建築」の明日に賭けた上林敬吉の最晩年の礼拝堂を紹介し、この連載を終えることにします。

日本聖公会 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂

 1880年(明治13)に来日して以来、日本聖公会の発展に尽くし、立教学院の最高責任者(1893~1935年)などミッション・スクールの要職も務めたジョン・アレクサンダー・ダンバー・マキム主教を記念する本礼拝堂は、第二次世界大戦中の1940年(昭和15)に計画が始まりました。

日本聖公会 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 全景 2022年撮影 撮影:church2023.jp

 よってさまざまな面で戦争の影響を受け、着工が1951年(昭和26)10月、聖別式は1952年(昭和27)5月7日まで持ち越されます。

上林敬吉建築設計《日本聖公会北関東教区 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 内部透視図》1950~1951年頃 所蔵・画像提供:学校法人聖路加国際大学

 上林はこの間、聖路加国際病院(現・学校法人聖路加国際大学)営繕課長として(1938年以降、1960年の逝去まで)、勤務先の建物と設備の設計、監理、保守を担うかたわら、信徒建築家の立場で、前橋の礼拝堂のほか、聖公会施設の新築、戦後復興に貢献しました。

上林敬吉建築設計《日本聖公会北関東教区 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 立面図》[左]側面[右]正面 1948年 所蔵・画像提供:学校法人聖路加国際大学

 残された図面のなかには1948年(昭和23)2月20日付のもの、すなわち日本聖公会が本礼拝堂を北関東教区の主教座聖堂と決定したのち、約3週間後に描かれた立面図が含まれています。これは、戦後間もない頃から日本聖公会、北関東教区と前橋の人々、上林が計画の実現に向けて力を結集したことの証にほかなりません。

日本聖公会 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 内部 2022年撮影 撮影:church2023.jp

 今日見る礼拝堂は、内陣を南に置き、翼廊が小礼拝堂(東)と礼拝準備室(西)を成す単廊式身廊の十字架形平面(バシリカ)を呈し、ポーチと玄関間を兼ねた塔屋は、建物の東側北端にあります。瓦葺で緩勾配の切妻・八角(変形または部分)屋根、半円アーチで統一された開口部、内陣上部の円形高窓などに見る通り、ロマネスクが基調です。

上林敬吉建築設計《日本聖公会北関東教区 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 立面図》[左]東側面[右]南正面 1948~1949年頃 所蔵・画像提供:学校法人聖路加国際大学

 しかし、この最終案に落ち着くまで、内陣、玄関、塔屋の位置や、細部と全体の意匠は変転しました。
 ①1948年2月20付の案、②1948~1949年頃の案、③1950~1951年頃の案、④1951年の実施設計図を比較すると、①はモダン・アングリカンの名残をとどめ、②でゴシック色が強まり、③④でモダン・ロマネスクに到達したことがわかります。

上林敬吉建築設計《日本聖公会北関東教区 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 立面図》[左]東側面[右]南正面 1950~1951年頃 所蔵・画像提供:学校法人聖路加国際大

 内陣は①③④が南、②は北、必然的に玄関は①③④が東側北端、②は東側南端で、塔屋は①が東翼廊の位置、②は東側南端、③④が東側北端に置かれました。また、②③④の塔屋は、ポーチと玄関間を兼ねています。

上林敬吉建築設計《日本聖公会北関東教区 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 立面図》[左]南妻面[中]東正面[右]北妻面 1951年頃 所蔵・画像提供:日本聖公会 前橋聖マッテア教会

 言い換えると、本礼拝堂は上林が貫いた「信徒建築家」という生き方を総集であるとともに、明治末期から直面してきた「教会建築の設計をめぐる暗黙の縛り」から解き放たれた境地を示す建造物として良いでしょう。[完]

日本聖公会 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 塔屋 2022年撮影 撮影:church2023.jp

日本聖公会 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂
●今日の名称(所在地)
日本聖公会 前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂(群馬県前橋市大手町)
●年代
聖別1952年(昭和27)
●設計・施工者
上林敬吉(設計)、清水建設(施工)
●工法・構造
鉄筋コンクリート造平屋建、3層塔屋付
●様式
モダン・ロマネスク(内部はモダン・アングリカンに準じる)
●教派
聖公会