1924年(大正13)3月に来日し、札幌に居を構えて以降、マックス・ヒンデルの施主は、住宅作品を別にすると、おおむねローマ・カトリック教会の関係組織でした。その端緒となったのがミッション・スクールの札幌藤高等女学校です。
当時、札幌地域のローマ・カトリック教会は、1915年(大正4)に札幌知牧区(フランシスコ会フルダ管区に委託)が函館司教区(パリ外国宣教会に委託)から独立するという大きな節目を経験したところでした。
1920年(大正9)にはヴェンセスラウス・ヨーゼフ・キノルド札幌知牧区長の招きで、殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会の修道女3名が来札し、教育事業に携わります。1923年(大正11)になると、北16条西2丁目(現・藤学園本部所在地)に修女会修道院が着工し、キノルド知牧区長と修道女たちの女学校計画も進められました。
そして翌1924年(大正3)、校舎を具現化する建築家だけが未定の情況で、札幌に来て間もないヒンデルに設計を依頼したのです。校舎の上棟は同年9月28日、年末の12月24日には高等女学校令による札幌藤高等女学校が認可され、明くる1925年(大正14)4月8日に開校します。
このように依頼から着工までの期間が短いにも拘らず、その後のヒンデルの建築の特徴は顕著に現れています。
しかし開校の7年後、1932年(昭和7)に起きた火災は、煙突に用いた土管の亀裂が原因で、わが国の建築材料について、最初期のヒンデルは理解が不十分だった点を三浦建築工務所(本校舎施工者)の三浦才三が指摘しました。
東西に細長い中央棟と、その両端で直角に交わる西翼、東翼から成る校舎は、中央棟が北に寄った逆凹字形平面です。西翼の西端中央にはポーチと教職員用の玄関があり、そこから始まる廊下は、突き当たりの東端で北に折れて段を下り、スキップ・フロアの中央棟北側の廊下に至ります。両者に共通の階段は、廊下の曲がり角に置かれました。左右対称な東翼も造りは変わらず、東端中央の玄関は生徒の出入用でした。
いずれの棟も切妻のフレアード・ルーフ(屋根勾配を軒近くで緩勾配とする裾広がりの屋根)を擁し、平側にも妻側にも連続的な窓が数多く並び、ブロックごとに庇が付されています。西翼と東翼は屋根が大きいため、南北妻面の窓の列は壮観を呈し、外壁には鉄板張が採用されました。これらはすべて、十分な明るさの確保と、降雪・寒さ対策のための実用的で理に適った意匠と言えます。
これに対して、立方体の上に六角柱を重ね、玉葱形の屋根を載せた塔屋は意味合いが異なり、中央棟の中心に据えることで、校舎に風格や象徴性を与えました。
戦後は、専門学校令に基づく藤女子専門学校の認可(1947年)、同校の藤学園への改称(1948年)、藤女子短期大学(1950年)と藤女子大学(1961年)の発足を経て、かつての女学校校舎の用途が専門学校、短期大学、大学の施設に変遷します。1967年(昭和42)4月にはキノルド記念館の名で、同窓会、学生の諸活動に供用するようになりました。
21世紀に入った2001年(平成13)1月、キノルド記念館は解体を余儀なくされました。その2年後の2003年(平成15)に失われたキノルド記念館、すなわち高等女学校校舎を縮小・部分復元した藤学園キノルド資料館が開館し、現在は藤女子中学校・高等学校の管理になっています。
札幌藤高等女学校校舎の建造物概要
●今日の名称(所在地)
現存せず
☞藤学園キノルド資料館(北海道札幌市北区北16条西2丁目)は縮小・部分復元
●年代
聖別1924年(大正13)
●設計・施工者
マックス・ヒンデル(設計)、三浦建築工務所(施工)
●工法・構造
木造三階建、鉄板張、建物中央に塔屋付
●様式
特定の様式によらない
●備考
ローマ・カトリック教会のミッション・スクール