人物略歴①マックス・ヒンデル

マックス・ヒンデル(1887~1963)
Max HINDER

マックス・ヒンデル(52歳)、北海道にて 1939年撮影 画像提供:角 幸博 氏(北海道大学名誉教授、歴史的地域資産研究機構代表理事)

 1887年(明治20)1月20日、スイスのチューリヒで生まれたマックス・ヒンデルは、1924年(大正13)3月に来日し、北海道札幌市で建築設計事務所を開設しました。1927年(昭和2)10月には神奈川県横浜市へ移り、1935年(昭和10)5月に事務所を閉めるまでの間、聖堂、修道院、キリスト教系の学校(ミッション・スクール)や病院を手がけます。そのほとんどがローマ・カトリック教会の施設ですが、ヒンデル自身はプロテスタント教会(スイス改革派教会)の信徒でした。また、札幌・横浜時代を通じて、住宅作品も残しています。時局の悪化により、1940年(昭和15)には日本を離れ、翌年からドイツのベルリンに居住しました。1945年(昭和20)にはドイツからスイスへ逃れる途中、ドイツ南東部のレーゲンで空襲に遭い、以降、祖国の土を踏むことなく、この地に留まります。そして1963年(昭和38)1月27日、レーゲンで逝去しました。

☞続編「ヒンデルの生涯年譜」はこちらをご覧ください

[左]マックス・ヒンデル(37歳)、札幌藤高等女学校上棟式にて(部分)1924年撮影 角 幸博(1995)『マックス・ヒンデルと田上義也:大正・昭和前期の北海道建築界と建築家に関する研究』札幌:北海道大学 所収 画像提供:角 幸博 氏(北海道大学名誉教授、歴史的地域資産研究機構代表理事)[右]札幌藤高等女学校校舎 南側全景 1975年頃撮影(藤学園キノルド記念館時代)撮影:モーリ写真工芸 画像提供:角 幸博 氏

 近代建築家としてのヒンデルの姿勢は、伝統と歴史を尊重し、風土や地域文化に対する理解が深く、同時代の工法を積極的に採り入れ、しかしホワイト・キューブ(白い箱)と称される即物的な鉄筋コンクリート造の建物には異を唱えました。このような考え方は、ロマネスクを基調とした多くの教会建築にも窺われます。

ジュネーヴ国際聯盟会館案模型を前にしたマックス・ヒンデル(39歳頃、後列左)と事務所のスタッフ、ヒンデル自邸兼事務所 東光園円い家仕事室にて 1926年頃撮影 画像提供:角 幸博氏(北海道大学名誉教授、歴史的地域資産研究機構代表理事)
マックス・ヒンデル《ジュネーヴ国際聯盟会館設計競技案》1926年 角 幸博(1995)『マックス・ヒンデルと田上義也:大正・昭和前期の北海道建築界と建築家に関する研究』札幌:北海道大学 所収 画像提供:角 幸博 氏(北海道大学名誉教授、歴史的地域資産研究機構代表理事)

学びを深めるための関連事業

本展の関連事業として、マックス・ヒンデルの研究では第一人者の角 幸博 氏(北海道大学名誉教授、歴史的地域資産研究機構代表理事)の記念講演会を開催します。☞詳しくはこちら