教会建築の設計者
教会建築は誰が設計するのか。これは、当事者である教会と建築家にとって、もちろん建築史研究の観点からも重要な命題です。
担い手の条件としては、まず信仰と建築の両分野に造詣が深いことが挙げられます。よって、専門知識と実務経験を有するミッション・アーキテクト(宣教建築家)が最も適任なのは言うまでもありません。
[下図]設計は札幌時代のマックス・ヒンデルにより、聖別式は1925年(大正4)11月19日でした。その後、1982年8月に解体されています
ただし時代、教派、地域により、教会と建築家の有り様、関係性は異なりました。
ローマ・カトリック教会の場合、日本近代に派遣されたパリ外国宣教会、フランシスコ会、神言会、イエズス会、ドミニコ会などの関係者のなかに、ミッション・アーキテクトと呼べる人物が見当たらない点に気づかされます。この需要に応えたのがマックス・ヒンデルだったのです。
[下図]開設は1782年で、ヒンデルが生まれる25年前、尖塔が聳える小教会堂に建て替わりました(1862年)。その後、1891年に増築されています
ヒンデルは生地チューリヒのプロテスタント教会(改革派教会)、アルテ・キルヒェ・フルンテルンで洗礼を受けましたが、教会の活動に格別熱心なわけではなく、むしろ19世紀生まれのヨーロッパの多くの人々と同様、キリスト教国出身の平均的な信徒でした。
来日前に特定の宣教組織と密接な関わり持っていた形跡、教会建築に特化した活動は見られず、この領域におけるヒンデルの才覚は、わが国で開花したとしても過言ではありません。
[下図]設計はジャック・エドモン・ジョセフ・パピノ司祭により、聖別式は1890年(明治23)5月1日でした。その後、1973年(昭和48)に博物館 明治村へ移築されています
聖堂に絞るならば、明治時代は司祭による設計のほか、彼らの構想や指導に基づく事例が多いのもローマ・カトリック教会の特徴です。
なかでもパリ外国宣教会のジャック・エドモン・ジョセフ・パピノ司祭は、1887年(明治20)の来日以来、1907年(明治40)の一時帰国(離日は1911年)までの間、赴任した各地で聖堂の新築・改築に携わりました。というのも神学を修め、宣教師になる前、パピノ司祭はフランス国立エクス=アン=プロヴァンス高等工芸美術学校で学んだ経歴の人物だからです。
[下図]設計はアントニン・レーモンドにより、聖別式は1935年(昭和10)8月15日でした
その後、昭和戦前にはヒンデルを始め、さまざまな外国人建築家がローマ・カトリック教会の施設設計に参画し、正統派はもとより、斬新な意匠の建造物、近代的な学校・病院建築も現れます。
上智大学二代校舎
戦国時代の1549年(天文18)、日本にキリスト教を伝えたイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、わが国にローマ・カトリック教会の大学設立を願いながら、この夢が叶わないまま離日しました。
明治時代には他の教派を含め、数多くのミッション・スクールが築かれますが、1899年(明治32)の文部省訓令第12号により、官公私立学校での宗教教育が禁じられると、キリスト教を掲げる学校は苦境に立たされました。戦前に大学昇格を果たした学校も限られ、それを実現し、ザビエルの期待に応えたのが上智大学です。
[下図]設計はヤン・レツェルにより、1914年(大正3)に竣工しました。その後、1923年(大正12)の関東大震災で大きな被害を受けます
当初から東京にローマ・カトリック教会の大学を新設するというミッション(使命)を帯び、1908年(明治42)に再来日を果たしたイエズス会は、2年後に上智学院を発足させます(1910年)。1913年(大正2)には既存の仮施設で授業が始まり、その翌年、初代校舎が竣工しました(1914年)。
ところが1923年(大正12)の関東大震災で被災したため、一部を取り壊して全面改装を行います。札幌在住のヒンデルに新しい建物の依頼があったのは、1927年(昭和2)のことです。
こうした背景に鑑みて、ヒンデルは基本設計を何度も推敲しました。結果、左右対称配置に則り、その中心に塔屋を置くそれまでのスタイルを脱し、L字形平面の近代的なビルヂングに至ったのです。
東北東・西南西に長い主棟は、中央が1階から4階まで、両端は4階をセットバックした逆凹字形平面を呈し、スキップ・フロアで半階低い西翼に連なります。西翼も3・4階がセットバックされるので、立面は変化に富み、正面玄関は西翼の北北西側、主棟との接続部に設けられました。
講堂、教室、教授室が占める2階以上を簾煉瓦張とし、水平性を強調した意匠には、昭和戦前らしさが感じられます。しかし主棟の両端、西翼は全面的に3・4階を黄土、他は赤茶の簾煉瓦で覆う仕様は珍しく、材に対するヒンデルの興味が窺われてやみません。
主棟においては、石張の壁上に半円アーチの窓と、テラコッタ装飾板を交互に並べ、図書館機能を示すとともに、教会建築に通じる趣をもたらしました。
他のモダニストと一線を画するヒンデルの力量は、多様な外装材、これらと内部空間の関連づけにも見て取れます。地階、1階、ポーチ、玄関ホールに張ったルスティカ仕上(自然のままの粗い仕上)の花崗岩は、西棟の管理部門、地下の食堂や機械室など大学の骨格を象徴するものです。
上智大学二代校舎の建造物概要
●今日の名称(所在地)
上智大学1号館(東京都千代田区紀尾井町)
●年代
竣工1932年(昭和7)
●設計・施工者
マックス・ヒンデル(設計)、木田保造(施工)
●工法・構造
鉄筋コンクリート造地下2階(地下1階は半地下)・地上4階建、屋上付
●様式
モダニズム
●備考
ローマ・カトリック教会のミッション・スクール