TOPICS015:巨大ポスターをめぐって その② 13.05.2018

サヴィニャックが子ども時代から親しんだ「パリを彩るポスター」は、その青年期に発展を遂げ、やがて彼は、自ら「パリにポスターの魔法をかける」存在となります。
20世紀のパリに限らず、「街とポスター」は不可分の関係にあり、ヨーロッパの場合、刷り物の「大きさ・広がり」は建造物と一体的に、また、広告としての「訴求力・効果」は人々との関わりで編み出されました。


本展の見どころでもある「貼り合わせ式の巨大ポスター」は、石や煉瓦を積み上げる西洋の組積造、1920年代以降に敷衍した鉄筋コンクリート造による建物に触れずして語ることができません。多層階で、一つひとつの階高もある集合住宅やビルディングの構造のみならず、その密集度、風土的に窓が小さく、数も少ない点に加えて、古くから都市を取り囲み、街を区分してきた(石・煉瓦造)もまた、ポスターの興隆に寄与しました。要するに、「背高で面積のある頑丈な無垢の壁」が確保できたからこそ、それが掲出に利用されたのです。


あわせて、消費文明、大衆文化、複製芸術が発展した20世紀前半の都市には、ポスター以外の広告――チラシやビラは元より、看板、垂れ幕、ショー・ウィンドー、アドバルーン、電飾、映画の挿入映像、車体に取り付けられた宣伝物などがあふれ返り、その喧噪のなかで、A. M. カッサンドル(1901~68年)が指摘した「高速で移動する人々の視線を瞬時に射止める」技術を、ポスター作家は懸命に模索します。このような状況で、ポスターが大型化し、より単純で印象的な表現に傾斜するのは、必然の為せるわざ、として良いでしょう。国・地域によっては、掲出に関する規制があったので、ヨーロッパであっても、建造物のそこかしこではなく、特定の場所、広告塔などにポスターを貼り出す方法が採られました。そうしたなかでパリは、常に街路をポスターが彩り、ポスターの魔法によって輝いた都市であり続け、この情景が、佐伯祐三に代表される同時代の画家のモティーフにもなっています。一方、建築・都市のあり方が根本的に異なり、江戸年間の高札に由来する掲示板が発達したわが国は、明治・大正・昭和戦前期、そして今日も、ポスターのスケール感、掲出が欧米とは相違します。つまり、ビルが建ち並ぶ近代的な都市――東京や大阪であっても、かつて商店や住宅の多くが低層の木造だったため、その壁と掲示板に、小ぶりのポスターを画鋲で留め、表通りではむしろ、ショー・ウィンドーの背景として掲出しやすいよう、画面の上下に金物を取り付けるタイプのポスター(昔のカレンダーと同じ)が主だったのです。


では、ヨーロッパにおける古典的なポスターの掲出は、いかなる方法だったのでしょうか。この連載の第一回でも紹介した記録写真を見る通り、それは「石や煉瓦(多くは漆喰塗)、コンクリートの壁」にふさわしいやり方で、水溶性の糊、デッキ・ブラシ2本、脚立や梯子(巨大サイズの場合、建物の屋上から職人が命綱でぶら下がる)を用います。1本目のブラシで壁に糊を塗りつけ、ポスターを貼ると、表面を2本目でこすって皺を伸ばす、という手順を手早く繰り返しますが、すでにある広告をはがすことはありませんでした。常に、新しいものが上へ貼り重ねられたのです。年月とともに、風化する、部分的に破れる、下から昔のポスターが顔をのぞかせるといった状況もしばしば見られ、絵描き写真家にとって魅力的なモティーフ研究者貴重な糧として街に蓄積されていきました。
現在、世界の国・地域では、デジタル広告が幅をきかせています。それでもなお、サヴィニャックを育み、彼が育んだポスターを「貼る伝統」は残されており、その様相を見るにつけ、ポスターという広告媒体の力が衰えていないことを感じてやみません。(続く)

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