ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(1857~1925)
James McDonald GARDINER
1857年5月22日、アメリカのセントルイスに生まれたジェームズ・マクドナルド・ガーディナーは、米国聖公会のレイ・ミッショナリー(非聖職宣教師)の身分で1880年(明治13)10月に来日し、築地居留地(東京都中央区明石町)の立教学校校長となりました。この時から英語や英文学の教育とともに、聖公会の礼拝堂と関連施設、ミッション・スクール(学校)の設計に携わります。ただし母国において本格的に建築学を修めたわけではなく、実務経験もありませんでした。しかし人脈に恵まれた文化人だったことから、わが国を拠点とするミッション・アーキテクト(宣教建築家)として知られるようになります。
[下図]1889年(明治22)に築地居留地で聖別された聖三一教会初代礼拝堂は、ガーディナーの設計によります。明治東京地震(1894年)で被災するものの復興され、1896年(明治29)に日本聖公会東京北部地方部(翌年から東京北地方部)の主教座聖堂となります。その後、関東大震災(1923年)で失われました。
1892年(明治25)にガーディナーは立教の校長を辞め、居留地内の自邸で建築設計に専心します。ところが1894年(明治27)、教授の職位で立教に復帰し、1896年(明治29)には12歳だった上林敬吉と京都で出会い、東京へ戻る際、敬吉少年を建築家に育てるべく同行します。自邸における建築設計事務所の開設は1903年(明治36)でした。1904年になると、かつての居留地から東京市内へ移り、1906年、21歳の上林が所員として入所します。
1908年(明治41)にガーディナーは米国聖公会伝道局を退き、建築設計が本業となりました。聖公会の施設はもとより、外国公館や貴顕の住宅を手がけ、教会建築はアングリカン・ゴシック・リヴァイヴァル、世俗の建物もゴシック・リヴァイヴァル、アーツ・アンド・クラフツ運動を踏まえた復興様式を展開します。そして1925年(大正14)11月25日、東京の聖路加国際病院で逝去し、その二日後、自ら設計した日光真光教会礼拝堂(現・日本聖公会 日光真光教会礼拝堂)に葬られました。
明治東京地震(1894年)、関東大震災(1923年)で失われた建物も多いなか、日光の礼拝堂を始め、現存する教会建築については、本サイトの「建造物めぐり」で順次取り上げていく予定です。
学びを深めるための参考文献
松波秀子(2012)「新・生き続ける建築1:ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー 日光に眠るミッション・アーキテクト」『LIXIL eye』1号 東京:LIXIL