有名無名、聖俗を問わず、あらゆる建造物は人の手で築かれ、人々とともに息づき、人間の一生より長い時間を生き長らえ、やがて歴史の一翼に組み込まれていきます。
宇都宮天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)の場合、二つの教会の歩み④(1938~2023年)で述べた通り、1945年(昭和20)7月12日の宇都宮空襲で被災しました。焼夷弾が直撃し、鉄筋コンクリート造・大谷石張ではない部分と、聖堂以外の木造施設が焼失したのです。その際、図面その他の設計図書も失われました。
しかし当時の人々の尽力で、1947年(昭和22)4月6日には聖堂の復興が完了します。戦前の記録写真・資料には空襲の難を逃れたものがあり、幸いにも聖堂とその記憶は後世まで伝えられました。
地域にゆかりの版画家、内田進久(うちだしんきゅう:1901~1958年)の《教会》と《残照》については、単なる記録ではなく、この聖堂をモティーフとする優れた美術作品として制作され、しかも聖別6年後(1938年)、復興直後(1947年)の様子を正確に捉えた点で貴重です。
同じアングルによる両作品は、実に対照的と言えます。《教会》の方は、敷地を囲む石垣の前に抽象的な人物が佇み、これに対して《残照》は、ミサから帰る人々が静々と歩む情景を描写しているのです。ともに美術作品だからこそ表現可能な「情感」に溢れ、聖堂の「生きた心」に触れることができるとしても過言ではありません。
両作品それぞれの拡大画像は、こちらをご覧ください
この聖堂の随所には、時代ごとの変化が刻まれています。
たとえば90年前から昭和戦前は、身廊(会衆席)が畳敷で、内陣の手前には聖体拝領台があり、奥まった位置の祭壇は大谷石製でした。
第二バチカン公会議(1962~1965年)が開催され、ローマ・カトリック教会のミサが刷新されると、祭壇に立つ司祭は会衆と向き合うようになります。これを機に1970年(昭和45)、聖堂の祭壇は白大理石製に変わりました。内陣のパイプ・オルガン設置は、教会創立90周年に当たる1978年(昭和53)のことです。
1985年(昭和60)には大谷石製の新しい祭壇を中心に、内陣の設えに厳粛な華やぎが加味され、現在に至ります。
開口部にも変化が見られます。昭和戦前、復興後の昭和戦後は、鉄製サッシュに色ガラスを嵌める半円形欄間付の突出窓を擁しました。
[下図左]色ガラスの窓は聖堂の外からも見えました
その後、今日も見られるアルミニウム製のサッシュに置き換えられ、薄黄色のダイヤガラスが柔和な光を注ぐようになります。
[下図右]最上部に張った石材は古く、下部とは色合いや質感、細工が異なります
献堂から90年を経た本聖堂は、他にも多くの修復・改修が行われ、竣工当時の古い大谷石と、昭和戦後・平成時代の新しい石材が調和的に同居しています。こうした修復・改修は、聖堂が祈りと集いの場、歴史的建造物、文化財として生き、これからも生き続ける存在だからこそ成され、それもまた聖堂の記憶となっていくのです。