昭和10年代から終戦の頃
本展の主役、宇都宮天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)が1932年(昭和7)、宇都宮聖約翰教会礼拝堂(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂)が1933年(昭和8)に聖別されて以降、わが国は厳しい時局を迎えました。
[下図]当時の聖堂は身廊が畳敷で、内陣を囲む横断アーチにラテン文字が記されていました
1937年(昭和12)7月7日に日中戦争(~1945年9月9日)が勃発すると、世の中は戦時下体制に突入します。西原町の礼拝堂を手がけた上林敬吉は同年1月に東京の設計事務所を閉め、松峯町の聖堂の生みの親であるマックス・ヒンデルも二年前の1935年5月には、横浜の事務所を解散していました(離日は1940年)。1939年(昭和14)9月1日は第二次世界大戦(~1945年9月2日)、さらに1941年(昭和16)12月8日になると、太平洋戦争(~1945年9月2日)が始まり、戦時下のキリスト教会は国の管理統制を受け、多くの困難を経験します。
[下図]モティーフは聖別6年後の宇都宮天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)
二つの教会のうち、宇都宮天主公教会(現・カトリック松が峰教会)は戦時中、ミカエル・シャレット司祭の警察抑留、健民修練所としての二代聖堂の徴用、塔屋の鐘の金属供出を経て、1945年(昭和20)7月12日、宇都宮空襲で被災するという大きな不幸に見舞われました。この時、二代聖堂は焼夷弾で屋根が焼け落ち、他の施設は焼失します。
一方、宇都宮聖約翰教会(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会)は、1942年に単立の宇都宮聖公教会となり、1943年には日本聖公会が組織解消を余儀なくされました。そして1945年6月20日、中島飛行機設計部が幼稚園舎を徴用します。
終戦後、松峯町では二代聖堂の復興が始まり、1947年4月6日に従来の姿を取り戻すことが叶いました。また、日本聖公会も1945年10月18日付で再組織され、これに西原町の教会が復帰し、再び宇都宮聖約翰教会と名乗ります(1998年に宇都宮聖ヨハネ教会と改称)。
[下図]モティーフは空襲被災から復興直後の宇都宮天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)
昭和戦後から聖別90周年まで
戦後復興を抜け、1950年代以降は、宇都宮と日本、世界の政治経済と精神文化を始め、教会建築が大きく変貌しました。そうしたなか、二つの教会は時代の変化に合わせて、しかし人々の心の拠りどころとなってきた歴史的建造物が末永く継承されるよう聖堂と礼拝堂に適切な改築、丁寧な修復を重ねながら、今なお大切に保存されています。
[下図]現在の祭壇は1985年(昭和60)に新造、内陣のパイプ・オルガンは1978年(昭和53)設置されました
2011年(平成23)3月11日の東日本大震災の際は、日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂が被災しましたが、同年10月22日には無事に工事が終わります。2018年(平成30)5月における「大谷石文化」の日本遺産認定にあっては、カトリック松が峰教会聖堂とともに、38の構成文化財の一環に選ばれています。
[下図]本礼拝堂の場合、内部の建具や金物の多くは竣工当時のものです
令和時代に入り、2022年(令和4)11月23日にカトリック松が峰教会聖堂は、聖別90周年を祝いました。今年の5月22日になると、日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂も90周年を迎えます。
このような二つの教会、二棟の聖なる歴史的建造物、それぞれを手がけた二人の建築家に光を当てる「宇都宮美術館開館25周年記念 二つの教会をめぐる石の物語」は、いよいよ2月19日に開幕となります。
[下図]本展では、オリジナル図面や実測調査に基づいて新たに制作した5つの建築模型が出品されます
ちなみに当館では、2017年に「宇都宮美術館開館20周年・市制施行120周年記念 石の街うつのみや 大谷石をめぐる近代建築と地域文化」を開催しましたが、そのために費やした10年の調査、それ以降の継続研究の成果を今回の「二つの教会」展に反映させました。どうぞご高覧ください。
[下図]下から7行目の「宇都宮教会堂」が宇都宮聖約翰教会礼拝堂(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂)を指します
※二つの教会の建築的な特質については、建造物めぐり①宇都宮天主公教会二代聖堂の概要と見どころ、②宇都宮聖約翰教会礼拝堂の概要と見どころ、③二つの教会のディテールと石づかい、⑬宇都宮天主公教会二代聖堂の記憶、⑭宇都宮聖約翰教会礼拝堂の記憶ご覧ください