バシリカの源流
キリスト教が成立して間もない頃は、教会建築の様式的な典拠が古代ローマに求められました。すなわち、公共建築としてのバシリカです。
紀元前2世紀頃に遡るバシリカは、本来は複数の建造物群の一つを指し、長方形平面のなかに二重の柱廊で囲まれる広間、その中央上部に採光用の高窓が設けられます。宗教的な施設ではなく、裁判所や市場の機能を有しました。
トラヤヌス帝の時代に造営されたバシリカ・ウルピア(112年頃)は、長辺が117メートル、短辺は55メートルで、短辺の両端は半円形です。長辺の南側は広場に面し、北側には二棟の図書館、その間に記念柱が建っていました。
4世紀を迎え、コンスタンティヌスⅠ世がキリスト教を公認すると(313年)、ローマ帝国では最初期のバシリカを転用するかたちで教会建築が築かれ、これがバシリカ聖堂の源流となります。
躯体は石造により、木の小屋組で屋根を支え、長方形平面の短辺は手前側を正面(ファサード)とし、奥に半円形のアプシスが配されます。祭壇はアプシスの中央手前に置かれました。これらの関係に基づき、かつての広間が身廊、二重柱廊の間は側廊という位置づけが成されます。
360年頃に身廊が完成した初代サン・ピエトロ大聖堂は、ファサードの前に広大なアトリウム(広場)があり、古代ローマ建築の趣を反映するものでした。
内部は五廊式で、身廊に架けた切妻屋根と、二重の側廊を覆う差掛屋根の勾配は緩やかです。
バシリカ聖堂の確立
476年に西ローマ帝国が滅亡した5世紀以降の西洋中世は、キリスト教の広まりに伴い、祭壇を擁するアプシス、左右に側廊を持つ身廊で構成され、身廊上部に高窓を設けたバシリカ聖堂が発展を遂げます。
ヨーロッパから見てエルサレムの方向に当たる建物の東に内陣、必然的に玄関は西という方角も意識されました。東西に長い平面、内陣と身廊を分かつ翼廊が南北に突き出るラテン十字形の平面が編み出されると、バシリカ聖堂は高度で複雑なものになります。
日本近代においては、ローマ・カトリック教会を通じてバシリカ聖堂が伝わりますが、建造技術、建物規模は西洋中世にとても及びませんでした。内陣と玄関の方角は、当然ながらヨーロッパとは正反対です。
1862年(文久元)、わが国に登場した初めての教会建築である聖心教会(現・カトリック山手教会)初代聖堂(横浜天主堂)は、バシリカ聖堂に則ります。ただし聖別当時の姿は、身廊上部に高窓がなく、内部の採光が不十分でした。その後、1898年(明治31)に屋根をかさ上げすることで、これを解消しています。
宇都宮天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)の場合、十字架形平面という意味でのバシリカとしては、翼廊を切り詰めているので、長方形平面を呈します。一見したところ、より原初的なバシリカ聖堂に近い印象ですが、後陣の西に突き出た矩形の香部屋など独自な点も見られ、マックス・ヒンデルの創意と、日本近代が生み出した教会建築であることを感じさせてやみません。