基本設計はヴォーリズ、実施設計がヒンデル
アメリカの長老派教会伝道局から派遣されたサラ・C・スミス宣教師により、札幌に設立された北星女学校は、実現されたマックス・ヒンデルの建造物のなかで唯一のプロテスタント系の学校施設です。このうち、宣教師館と寄宿舎がヒンデルの在札当時(1926年)、計画が遅れた校舎は横浜時代に竣工しました(1929年)。
[下図]左は創立者スミス宣教師の胸像、右は宣教師館をかたどったオルゴール
宣教師館と寄宿舎に関しては、ヒンデルの来日前から基本設計が進められ、1923年(大正12)8月27日(寄宿舎)、9月10日(宣教師館)と記されたヴォーリズ建築事務所の図面が残されています。
実施設計をヒンデルに依頼した理由としては、次の三つが考えられます。まずヒンデルの最初期作で、ローマ・カトリック教会系ミッション・スクールの札幌藤高等女学校校舎が1924年(大正13)に竣工したこと。次に北星女学校の校長スミス宣教師、エリザベス・M・エヴァンス宣教師と、北海道帝國大学予科ドイツ語講師ハンス・コラー、コラー夫人ルイーズ(ヒンデルの妹)の人的な交流に留意する必要があります。さらにヴォーリズ建築事務所が滋賀県蒲生郡八幡町(近江八幡市)に所在し、物理的に遠かった点も考慮すべきでしょう。
スイス民家風の学校建築
宣教師館と寄宿舎、校舎は、いずれも屋根裾が緩勾配、全体は急勾配のフレアード・ルーフ、妻側・平側にいくつもの窓を擁し、小屋根や庇があちこちに突き出たスイス民家風の木造建築という点で共通します。すなわち、札幌時代にヒンデルが聖俗の建物で展開した風土性の強いスタイルにほかなりません。
なかでも宣教師館は、色使いが注目に値します。1階の外壁が薄紫色の塗装仕上、2・3階は辛子色の鉄板張で、屋根と小屋根、これらの破風や軒先、窓枠などは濃緑色で統一し、薄緑色のサッシュを嵌めているのです。このような色彩計画は、学校の意向を汲むものと考えられ、薄紫色はライラックに由来します。というのもスミス宣教師は1889年(明治22)に一時帰米し、翌年にライラックの苗木を携えて日本に戻り、これが札幌におけるライラック生育の始まりとされるからです。
宣教師館の造りは平明で、1階の東側に玄関間、西側は厨房を置き、両者を結ぶ廊下の北側には二か所の階段室、他はバックヤードでした。南側には応接室、居間、食堂、朝食室が並びます。2・3階は複数の居室に充て、使用人室、物置が3階にありました。
ヴォーリズ建築事務所の基本設計も、部屋の構成はほとんど変わりがなく、1階の間取りに違いが見られます。
外観は対比的で、勾配が緩やかなスレート葺の屋根、スタッコ仕上の外壁に、煉瓦の煙突と基礎、半円アーチの大きなポーチがアクセントを添えるスパニッシュ・コロニアル風を呈しました。
[下図]ヒンデルの実施設計がスイス民家風(左)であるのに対して、ヴォーリズ建築事務所の基本設計はスパニッシュ・コロニアル風(右)でした
戦後は、北星高等女学校の北星学園への改組(1947年)、学校教育法に基づく北星学園女子中学校(同年)と北星学園女子高等学校(1948年)、北星学園女子短期大学(1951年)の発足を経て、1961年(昭和36)、かつての宣教師館が敷地内で移設され、短期大学の施設となります。
しかし旧・校舎については、北星学園大学が発足した翌年、1963年(昭和38)12月に火災で焼失し、その約10年後の1974年(昭和49)11月には旧・寄宿舎が解体されました。
一方、旧・宣教師館は1989年(平成元)9月~11月に再移設と修復が行われ、1991年(平成3)11月、北星学園創立百周年記念館の名で開館し、翌年から一般公開も始まり、現在に至っています。
[下図]宣教師館だった頃の居間と食堂を美しく蘇らせています
北星女学校宣教師館、寄宿舎、校舎の建造物概要
●今日の名称(所在地)
北星学園創立百周年記念館(北海道札幌市中央区南4条西17丁目)
☞寄宿舎、校舎は現存せず
●年代
宣教師館、寄宿舎:竣工1926年(大正15)
校舎:竣工1929年(昭和4)
●設計・施工者
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(基本設計)、マックス・ヒンデル(実施設計)、三浦工務所(宣教師館・寄宿舎施工)、松浦周太郎(校舎施工)
●工法・構造
木造3階建、1階外壁モルタル塗、2・3階の外壁は鉄板張
●様式
特定の様式によらない
●備考
プロテスタント系の学校