日本近代の煉瓦
わが国における建築用煉瓦の製造とその利用は、幕末に遡ります。ともに肥前国(長崎県)が発祥で、煉瓦づくりは1855年(安政2)設立の海軍伝習所(長崎市江戸町)に始まり、同所で焼かれた材による初の煉瓦造建造物は、1857年(安政4)着工の長崎鎔鉄所(長崎市飽の浦町)でした。
明治年間になると、製造とともに洋風の煉瓦建築が広まり、大正前期の1915~1919年(大正4~8)に生産が急増します。しかし1923年(大正12)の関東大震災では、煉瓦造建造物の被害が大きく、以降、鉄筋コンクリート造の導入が進んでいきます。
それまでの間、関東圏の業界を牽引したのは、1888年(明治21)創業の日本煉瓦製造で、官庁や鉄道のための良質な煉瓦を産し、埼玉県榛沢郡上敷免村(深谷市上敷免)に工場が置かれました。1895年(明治28)には日本鉄道(1906年に国有化、のち高崎線)の深谷駅と工場を結ぶ専用鉄道が敷かれ、輸送力が格段に向上します。
熊谷聖パウロ教会二代礼拝堂
時あたかも1885年(明治18)、深谷から12kmほど離れた大里郡石原村(熊谷市石原)に聖公会の講義所が開設されました。石原村内(熊谷市宮町の現在地)での初代礼拝堂(聖公会熊谷教会、のち熊谷聖パウロ教会)の聖別は、日本煉瓦製造の始動と同じ1888年(明治21)です。そして、国産煉瓦の生産活況期に当たる1919年(大正8)、時代の申し子とも言える煉瓦造の二代礼拝堂が現れました。
本礼拝堂は、内陣(南南西)、単廊式身廊(北北西)、礼拝準備室(東南東)、塔屋(同)から成り、全体として簡素なコ字形の平面を呈します。
塔屋はポーチを兼ね、1層目の道路に面する北北西面、敷地側の東南東・南南西面は、尖頭アーチ(ゴシック・アーチ)が弧を描きます。目隠しのため尖頭部のみ開いた南南西面に対して、北北西・東南東面のアーチはくぐり抜けることができるよう設えられました。外扉、狭い玄関間の内扉の向こうは身廊です。
躯体はイギリス積の煉瓦造を採用し、塔屋の三隅下部と、建物四面の要所に付した控え壁は、見るからに剛直で、石の水切りで保護されています。
採光、通風のための開口部としては小さい尖頭窓と同様、控え壁は単なるゴシックの象徴ではなく、明らかに構造的な意味を有するのです。
実用的な質朴さは、煉瓦がむき出しの内部の造りにも顕著で、建造物めぐり⑨京都聖三一教会初代礼拝堂(現・日本聖公会 聖アグネス教会礼拝堂)で言及したジェームズ・マクドナルド・ガーディナーとは中世復興の捉え方が対照的と言えます。
設計者のウィリアム・ウィルソンは、1916年(大正5)に立教大学池袋キャンパスの現場監理者の身分で来日しました。1917年(大正6)10月から関東大震災前までは、米国聖公会のミッション・アーキテクト(宣教建築家)として教会建築を手がけますが、現存する建造物はきわめて少なく、そのいずれもが煉瓦造です。
熊谷聖パウロ教会二代礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
日本聖公会 熊谷聖パウロ教会礼拝堂(埼玉県熊谷市宮町)
●年代
聖別1919年(大正8)
●設計・施工者
ウィリアム・ウィルソン(設計)、おそらく清水組(施工)
●工法・構造
煉瓦造平屋建、2層塔屋付
●様式
アングリカン・ゴシック・リヴァイヴァル
●教派
聖公会