浅草聖ヨハネ教会
●教派
聖公会
東京の聖公会のなかでも歴史が長い本教会は、1876年(明治9)、東京府第五大区浅草広小路(東京都台東区雷門)で講義所が開設されたことに始まります。
その後、浅草界隈を何度も移転し、1891年(明治24)に東京市浅草区黒船町(台東区駒形)で初代礼拝堂が聖別され、浅草聖ヨハネ教会と称するようになって以来、代々の礼拝堂には教会建築の変遷を辿ることができます。
切妻屋根に煙突が聳え、破風、控え壁の水切りなどに石を使った煉瓦造の初代礼拝堂は、教派色や様式性が薄く、公会堂にも見える洋風建築でした。
初代礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
現存せず
●年代
聖別1891年(明治24)
●設計・施工者
設計・施工者不詳
●工法・構造
煉瓦造平屋建、一部石張
●様式
特定の様式によらない(洋風建築)
1922年(大正10)になると、浅草区栄久町(台東区蔵前)に二代礼拝堂が登場します。
ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの最晩年作となり、当時はガーディナー事務所の設計主任だった上林敬吉が担当の二代礼拝堂は、やはり煉瓦と石を用い、ステンドグラスの窓が並ぶアングリカン・ゴシック・リヴァイヴァル・リヴァイヴァルを呈しました。
二代礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
現存せず
●年代
聖別1922年(大正11)
●設計・施工者
ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(設計)、施工者不詳
●工法・構造
煉瓦造平屋建、一部石張、塔屋付
●様式
アングリカン・ゴシッック・リヴァイヴァル
しかし1923年(大正12)9月1日の関東大震災により、二代礼拝堂は灰燼に帰し、以降、三代礼拝堂が完成されるまでは、仮礼拝堂で当面をしのぎました。
浅草区南元町(台東区蔵前の現在地)で三代礼拝堂が聖別式を挙げたのは、1929年(昭和4)のことです。
ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ(基本設計)と上林敬吉(実施設計)が協働して手がけ、復興礼拝堂の一翼に位置づけられる三代礼拝堂は、鉄筋コンクリート造を採用し、時代精神に合致する近代建築と評することができます。都市の角地に建つ三代礼拝堂は、当初から教会・会館棟、牧師館の複合体として計画されました。
教会・会館棟のポーチは御蔵前通に面し、玄関間、階段室の左手は、階高のある1階に礼拝堂(内陣の位置は南東)、半地下には多くの集会室、講堂ほか教会の諸活動のための部屋を設け、右手も半地下・地上1階で、執務や応接の機能を担いました。全体としては、L字形の低層ビルヂングにも等しく、敷地奥の牧師館も加えて、逆コ字形の伝道拠点、社会福祉施設を成したのです。
外観は、北西正面の五つの尖頭窓、これらを囲むチューダー・アーチ(四心尖頭アーチ)、塔屋を示唆する左右の縦長な直方体空間が眼を引きます。
装飾は象徴的で抑制されており、直方体空間の上部二箇所に葡萄図案のレリーフ、北西角の頂部に同じ柄で洗礼盤のような立体、その下に円筒形の付け柱を埋め込んでいます。
北東側面は、控え壁の間に高窓、尖頭窓、矩形窓を連続させ、この建物が単なるビルヂングではないことを明確に示しました。
1945年(昭和20)3月10日、東京大空襲で三代礼拝堂は大きな被害を受けます。
これを設計者の上林敬吉が自ら丁寧に復元し、1955年(昭和30)に元の姿を取り戻しています。
三代礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
日本聖公会 浅草聖ヨハネ教会礼拝堂(東京都台東区蔵前)
●年代
聖別1929年(昭和4)
●設計・施工者
ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ(基本設計)、上林敬吉(実施設計)、隅田組(施工)
●工法・構造
鉄筋コンクリート造半地下・地上1階建
●様式
モダン・アングリカン