建造物めぐり㉑日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂

ライト館「以前・以後」

 日本メソヂスト教会 安藤記念教会会堂(現・日本基督教団 安藤記念教会会堂)の解説で記した通り、大谷石の近代建築の多くは大正年間・昭和初期に現れました。この石の広汎な輸送、時代に即した利用が確立され、業界のみならず社会の認知が高まったからです。

[下図]吉武長一が手がけた安藤記念教会会堂(左)は1917年(大正6)、更田時蔵の城山会館(右)は1929年(昭和4)にそれぞれ完成しました

[左]日本メソヂスト教会 安藤記念教会会堂(現・日本基督教団 安藤記念教会会堂)全景 2022年撮影 撮影:church2023.jp[右]城山会館(旧・大谷公会堂)1929年撮影 宇都宮石材問屋組合 編(1929~1930年頃)『大谷石CATALOGUE』宇都宮:宇都宮石材問屋組合 所収 所収文献所蔵・画像提供:宇都宮美術館

 一般的には、1923年(大正12)9月1日、関東大震災の当日に竣工披露するはずだったフランク・ロイド・ライトの帝国ホテル新館(ライト館)「以前・以後」で、近代建築と大谷石の関わりが明確に区分されてきました。
 ただしこの史観は、ライトの個性に基づく石づかいこそがモダニズムの証であるという「ライト信奉」に偏りがちです。ライト館が震災に耐えたのは事実ですが、建物の耐震性や防火性についても「大谷石礼賛」の観点だけで語られる誤解を生んでいます。

ライト館(旧・帝国ホテル ライト館)演芸場前の遊歩廊 1923年撮影 洪洋社 編(1923年)『帝國ホテル』所収 所収文献所蔵・画像提供:宇都宮美術館

 確かにライト館の登場、いやむしろ関東大震災の発生「以前・以後」を比べると、大谷石建造物は一変しました。
 震災に伴う市街地建築物法(施行1920年)の改正で、煉瓦を建物の構造体に使用できなくなったことが影響し、大規模で背高な建造物は、鉄筋コンクリート造(RC造)の躯体に石を張る造りが主流となったのです。明治以来の木骨石造も廃れました。ところがこれに先立つ1913年(大正2)、RC造の型枠に木製定尺パネルが導入されたにも拘らず、ライト館は煉瓦型枠だった状況からわかるように、本格的なRC造の広まりは震災後のことでした。

ライト館(旧・帝国ホテル ライト館)の柱 2017年撮影 所蔵:博物館 明治村 画像提供:宇都宮美術館

 よってコンクリートと固結した型枠の表面に石その他を張るライト館は、堅固だけれども手間暇がかかり、型枠を除去できない未成熟な工法にとどまっています。
 意匠面では、必ずしも大谷石が主役ではないことや、仮にライトがそれを意図し、「以後」の建築家にインスピレーションを与えたとしても、内部空間の硬直な印象、特異な加飾については、より客観的に論じられて然るべきでしょう。同様に、ライト館の「前後10年」に造営された他の建築家の仕事も、改めて評価する必要があります。

ライト館に関しては、2017年(平成29)初版、2018年(平成30)改訂増刷版の展覧会図録『石の街うつのみや』(刊行:宇都宮美術館+下野新聞社)をご覧ください ☞詳細はこちら

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂

 日本組合基督教会 安中教会(現・日本基督教団 安中教会)の設立者の一人、新島襄を顕彰する本会堂は、木骨大谷石造により、1918年(大正7)に着工し、明くる1919年(大正8)に献堂されました。

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂(現・日本基督教団 安中教会新島襄記念会堂)全景 2022年撮影 撮影:church2023.jp

 その頃、ライト館の計画は、基本設計(1918年)から着工(1919年)にこぎ着けたところです。したがって、ここでいう「以前・以後」の分類では、前者に該当する希少な教会建築の一つにほかなりません。

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂(現・日本基督教団 安中教会新島襄記念会堂)西南西側 2022年撮影 撮影:church2023.jp

 石づかいに関しては、材の質感と「つるはし痕」を活かした飾り気のなさが眼を引きます。破風と塔屋がゴシック風で、水切りのある控え壁を有し、窓はロマネスク的な意匠ですが、同時代の聖公会の礼拝堂に顕著な「石に見立てた煉瓦の中世復興」とは明らかに異なります。設計者はむしろ切石積の質朴な風合いに魅せられて、創造的な見地から大谷石を選択したと考えられます。

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂(現・日本基督教団 安中教会新島襄記念会堂)建築工事 1919年撮影 新島学園女子短期大学新島文化研究所編(1988)『安中教会史:創立から100年まで』安中:日本基督教団安中教会 所収 (C)日本基督教団 安中教会

 ちなみに当時は、煉瓦が生産の頂点に達し(1915~1919年)、高崎線・信越本線を使えば、産地の埼玉県榛沢郡上敷免村(深谷市上敷免)から群馬県碓氷郡安中町(安中市安中)への輸送が容易でした。一方、栃木県河内郡城山村(宇都宮市大谷町)で採れる大谷石を運ぶには、宇都宮石材軌道、日光線・東北本線・両毛線・信越本線経由となり、かなりの時間と費用を要しました。

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂(現・日本基督教団 安中教会新島襄記念会堂)内部(入口側)2022年撮影 撮影:church2023.jp

 それほど石にこだわった外観にも増して、内部はいっそう伝統に囚われない造りが特徴的です。
 長方形平面の西南西中心に据えた聖壇と、対峙する会衆席は翼廊で分節されず、中央が筒形ヴォールト、左右は平たい折上天井を全体に戴きます。切妻屋根を支える小屋組は天井で隠され、会衆席を身廊と側廊に区分する列柱がないため、入口側上部のギャラリーから望む視界は広々としています。

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂(現・日本基督教団 安中教会新島襄記念会堂)聖壇上のステンドグラス 2022年撮影 撮影:church2023.jp

 聖壇を囲む半円アーチの垂れ壁、背後の壁に嵌めたステンドグラスは会堂らしさを表すものの、コンポジット式柱頭を擁する左右の大理石円柱は独特で、学舎や会議所に通じる趣を堂内にもたらしました。これらは教派のリベラルな思想、新島の生き方に敬意を表したディテールとして良いでしょう。

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂(現・日本基督教団 安中教会新島襄記念会堂)内部(聖壇側)2022年撮影 撮影:church2023.jp

 同時代の画家による教会関係者の油彩肖像画(*)の掲出も、他の教派や施設では見られない設えで、本会堂の見どころとなっています。

(*)湯浅一郎《新島 襄》(聖壇右)、同《湯浅治郎》(聖壇左)、松岡 寿《海老名弾正》(会衆席右・聖壇側)、岡 精一《柏木義円》(会衆席左・聖壇側)、湯浅一郎《ジェローム・デイヴィス》(会衆席左・入口側)の5枚を指します。このうち湯浅治郎は牧師ではなく、教会の創設以来、新島らの活動を支えた実業家、社会運動家、政治家、文化人の信徒でした。

日本組合基督教会 安中教会新島襄記念会堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
日本基督教団 安中教会新島襄記念会堂(群馬県安中市安中)
●年代
聖別1919年(大正8)
●設計・施工者
古橋柳太郎(設計)、施工者不詳、小川三知(ステンドグラス制作)
●工法・構造
木骨大谷石造2階建、3層塔屋付
●様式
特定の様式によらない(外観はロマネスクとゴシックを基調とする)
●教派
プロテスタント教会(日本組合基督教会)