和風のキリスト教建築
秋田聖救主教会二代礼拝堂(現・日本聖公会 秋田聖救主教会礼拝堂)の解説では、ノーマン・S・ハウエル司祭(米国聖公会)が綴った日本人信徒の礼拝堂観、具体的には「中世復興を意識した近代建築」に対する志向性を取り上げました。
この記事の掲載と同じ1930年(昭和5)、日本聖公会の別教区では興味深い礼拝堂が登場しています。
[下図]設計・施工は宮大工で信徒の大木吉太郎により、聖別式は1930年(昭和5)4月29日でした
それは、和風意匠・工法による新築の教会建築、奈良基督教会礼拝堂(現・日本聖公会 奈良基督教会礼拝堂)でした。
さらに2年後の1932年(昭和7)になると、ローマ・カトリック教会の奈良天主公教会(現・カトリック奈良教会)初代聖堂が聖別式を挙げ、やはり和風だった点に注目する必要があります。
[下図]聖別式は1932年(昭和7)7月24日でした
日本近代における「和風のキリスト教建築」については、教派や地域の違いが見られるとは言え、キリシタン禁制の幕末・明治初期、それが解かれた直後の事例、わが国の伝統的な造営技術を持つ施工者が手がけたもの、既存施設の転用・改築などを別にすると、必ずしも多いわけではありません。
[下図]1881年(明治14)に来日し、長崎県伊王島で宣教を行ったジャック・エドゥアール・ブレル司祭の設立、施工は大工の大渡伊勢吉によるローマ・カトリック教会の旧聖堂です
昭和戦前の奈良の場合、聖公会、ローマ・カトリック教会の新しい教会建築で和風が採用されたのは景観上の理由により、奈良県の指導に従った結果です(奈良県令第8号「奈良公園ノ隣接地域ヘ家屋其他工作物新築改築大修繕ニ関スル願出ノ件」」に準拠)。
これらが現れる約10年前の大正末期、大阪を訪れた米国聖公会のジョン・W・ウッド総主事は、当時の聖公会について、日本の伝統的な家屋を代表する寺院、城郭、屋敷のいずれもがキリスト教になじまず、しかしこの国に独自な様式も未確立のため、日本人信徒はゴシック風の礼拝堂を支持する旨を記しました。
[下図]本記事では「なぜ日本の礼拝堂をゴシック風の建築とするのか、和風で建てる選択肢もあるのではないか」という率直な問いかけが眼を引きます
ウッド総主事の考察は、日本の伝統的な様式に則る礼拝堂の登場と、教会建築の世界的な発展におけるこの国の貢献に期待すると締め括られます。しかし前述のハウエル司祭の指摘に読み取れる通り、昭和戦前に至っても聖公会では「和風の礼拝堂」が定着していない点に留意せねばなりません。
川口基督教会二代礼拝堂
米国聖公会の広報誌に寄せたウッド総主事の記事は、実は川口基督教会二代礼拝堂(現・日本聖公会 川口基督教会礼拝堂)の聖別が本題で、本礼拝堂の外観と、聖別式(内部)の写真が掲載されました。
設計は、ミッション・アーキテクト(宣教建築家)のウィリアム・ウィルソンによります。実作が少ないうえ、業績を窺い知ることができる記録も限られますが、その仕事が堅実だったのは確かで、本礼拝堂では教会の歴史に合致する荘重さを煉瓦造で具現化しました。
切妻屋根を戴く内陣と身廊は、東(東南東)側の道路に面した妻面中央にペディメント付きのポーチ、その上には2階ギャラリーの窓を設けています。内陣を擁する西(西北西)側も含めて、破風は棟高を越えます。玄関のある側は、いっそう高い塔屋が妻壁幅の3分の1を占めるため、安定感と垂直性の均衡が図られ、建物の正面も明確に示されました。
ほぼ正方形の内陣、その北(北北東)にある小礼拝堂、南(南南西)の礼拝準備室、単廊式で内陣より間口が広い身廊、これに続く玄関間、塔屋から成る配置は、翼廊を切り詰めた十字架形平面(バシリカ)を呈します。
南北幅11メートル、東西長15メートル余の身廊は、天井高が10メートル超を誇り、会衆席の上に張り出すギャラリーとも相まって、大伽藍の名に相応しいと言えるでしょう。
主な開口部、内陣を囲む手前の壁、シザーズ・トラス(鋏形洋小屋)の下弦材にはチューダー・アーチ(四心尖頭アーチ)が多用されています。
ウィルソンの質実なアングリカン・ゴシック・リヴァイヴァルは、聖公会と中世復興の源泉がイギリスにあること、西洋の眼で堅固と捉えられた煉瓦の構築性を示唆し、日本人信徒が期待する「ゴシック風」に応えたのです。
川口基督教会二代礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
日本聖公会 川口基督教会礼拝堂(大阪府大阪市西区川口)
●年代
聖別1920年(大正9)
●設計・施工者
ウィリアム・ウィルソン(設計)、井上忠一(現場監理)、岡本工務店(施工)
●工法・構造
煉瓦造2階建、4層塔屋付
●様式
アングリカン・ゴシック・リヴァイヴァル
●教派
聖公会