ウィリアム・ウィルソン(生没年不詳)
William WILSON
アメリカ出身で、米国聖公会伝道局ミッション・アーキテクト(宣教建築家)のウィリアム・ウィルソンは、謎に包まれた人物です。1916年(大正5)11月における来日の経緯は、立教大学池袋キャンパスの新築に伴い、キャンパスの全体計画を手がけたマーフィー・アンド・ダナ建築設計事務所の命を受け、米国聖公会の雇用により、短期契約の現場監理者として実務をこなすというものでした。
この大規模な事業は、設計事務所がニューヨーク、監理現場は東京のため、工事を円滑に進めるには実績のある優秀な現場監理者が必要で、ウィルソンは25名もの候補者の中から選ばれ、日本に派遣されました。建築教育については定かではありませんが、母国の建築家・都市計画家グロヴナー・アタバリー(1869~1956年)の下で経験を積んだことが判明しています。
池袋キャンパスの現場では、自身の立場や権限が曖昧なうえ、アメリカの請負業者、伝道局との関係、費用の問題から設計事務所との連絡に至るまで、多くの困難に直面しました。結果、一年の契約期間に満たないまま、1917年(大正6)10月には自らの意思で建設途上の現場を去ります。
その後、しばらくの間はわが国にとどまり、関東大震災前の大正年間に、埼玉県の熊谷聖パウロ教会二代礼拝堂(現・日本聖公会 熊谷聖パウロ教会礼拝堂、1919年)、川越基督教会三代礼拝堂(現・日本聖公会 川越基督教会礼拝堂、1921年)、大阪の川口基督教会二代礼拝堂(現・日本聖公会 川口基督教会礼拝堂、1920年)、聖バルナバ病院二代院舎(現存せず、1923年)を手がけます。いずれも煉瓦を用いた聖公会の施設で、聖バルナバ病院については基本設計がウィルソン、実施設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズが担いました。
震災後の活動と離日の事情は不明で、実作と同様、設計図書や文献資料もほとんど残されていません。とは言え、希少な現存事例を見る限り、教会建築の本質を正しく捉え、仕事が堅実だったのは確かです。
日本聖公会 川越基督教会では聖別100年の2021年(令和3)、定礎石内に納めた箱を取り出し、その中から当時の文書、刊行物、写真などが見つかりました。しかし設計者のことを明らかにする資料はなく、明治のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーと、昭和戦前のジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ、上林敬吉らを結び、教会建築における煉瓦時代の終焉を飾ったウィルソンに関する手がかりは掴めていません。