文明開化と殖産興業で幕が開けた明治時代は、世の中のあらゆる事象が大変革を遂げた時代です。そのなかで、「大谷石」が石切場から力強く羽ばたくに当たって、最も重要な役割を果たしたのは…
「鉄路」の敷設
すなわち輸送の便の発達でした。採掘・加工技術よりも進展が速く、近代建築に於ける展開は、鉄路の後塵を拝するかたちで、大正年間、昭和戦前に実を結びます。
このことについて、宇都宮、大谷地区との関わりで編年的に整理すると、次の年譜のようになります。
ポイントとなる事柄としては、日本鉄道(後の官鉄・国鉄、現JR)の「鶴田駅」が「幹線鉄道網」に接続する石の集散拠点だったこと、並びに「鶴田」と大谷地区・市内を結ぶ路線、石の産地である地区内の鉄路――宇都宮軌道運輸(後の宇都宮石材軌道・東武鉄道)の「地域軌道・軽便鉄道網」が、
【明治末期】
大谷地区~市内~鶴田が結ばれる(1903年)
【大正年間】
大谷地区~鶴田に軽便鉄道が敷かれる(1915年)
【昭和初期】
荒針(大谷地区)~立岩(同)の軽便線が開通する(1930年)
と段階的に充実していったことが挙げられます。
本展では、展示・映像番組・図録のなかで、「石と鉄路」の密接な関わりを示す路線図を紹介していますが、1929~30年頃(昭和4~5:大谷石材軌道)のものを見ると、石の街は「産業用の鉄・軌道が張り巡らされた街」だったことが分かります。一方、1926 年(大正15)に発行された刊行物の付図(鉄道省)では、地理的に離れた「関西・中国地方の御影石と大理石」と「北関東の大谷石」に係る路線が一枚の地図に集約されている点に、その当時、石の建材・貨物として何が重要視されたかを読み取ることができ、きわめて興味深く感じられます。
残念ながら、石の街の「地域軌道・軽便鉄道網」は、1964年(昭和39)に全線が廃止されてしまいましたが、その名残りは、かつての沿線を辿ると、随所で散見され、
石を運んだ鉄路の構造物の多くは、もちろん大谷石を多用したものでした。(次回に続く)