本展の見どころ紹介④ 石と鉄路・その1

文明開化と殖産興業で幕が開けた明治時代は、世の中のあらゆる事象が大変革を遂げた時代です。そのなかで、「大谷石」が石切場から力強く羽ばたくに当たって、最も重要な役割を果たしたのは…

「鉄路」の敷設

すなわち輸送の便の発達でした。採掘・加工技術よりも進展が速く、近代建築に於ける展開は、鉄路の後塵を拝するかたちで、大正年間、昭和戦前に実を結びます。

このことについて、宇都宮、大谷地区との関わりで編年的に整理すると、次の年譜のようになります。

宇都宮を中心とする鉄道と大谷石の100年譜 論集『大谷石の来し方と行方』(2015年、宇都宮美術館)より (C)Utsunomiya Museum of Art
宇都宮を中心とする鉄道と大谷石の100年譜
論集『大谷石の来し方と行方』(2015年、宇都宮美術館)より
(C)Utsunomiya Museum of Art

ポイントとなる事柄としては、日本鉄道(後の官鉄・国鉄、現JR)の「鶴田駅」が「幹線鉄道網」に接続する石の集散拠点だったこと、並びに「鶴田」と大谷地区・市内を結ぶ路線、石の産地である地区内の鉄路――宇都宮軌道運輸(後の宇都宮石材軌道・東武鉄道)の「地域軌道・軽便鉄道網」が、

【明治末期】
大谷地区~市内~鶴田が結ばれる(1903年)
【大正年間】
大谷地区~鶴田に軽便鉄道が敷かれる(1915年)

『宇都宮石材軌道株式會社 営業案内』より「鶴田輕便鐵道」 1915年、個人蔵
『宇都宮石材軌道株式會社 営業案内』より「鶴田輕便鐵道」
1915年、個人蔵

【昭和初期】
荒針(大谷地区)~立岩(同)の軽便線が開通する(1930年)
と段階的に充実していったことが挙げられます。

本展では、展示・映像番組・図録のなかで、「石と鉄路」の密接な関わりを示す路線図を紹介していますが、1929~30年頃(昭和4~5:大谷石材軌道)のものを見ると、石の街は「産業用の鉄・軌道が張り巡らされた街」だったことが分かります。一方、1926 年(大正15)に発行された刊行物の付図(鉄道省)では、地理的に離れた「関西・中国地方の御影石と大理石」と「北関東の大谷石」に係る路線が一枚の地図に集約されている点に、その当時、石の建材・貨物として何が重要視されたかを読み取ることができ、きわめて興味深く感じられます。

『大谷石CATALOGUE』より「大谷石材輸送機関線路一覽表」 1929~30年頃、宇都宮美術館蔵
『大谷石CATALOGUE』より「大谷石材輸送機関線路一覽表」
1929~30年頃、宇都宮美術館蔵

『重要貨物情況』(第7編)より「瀬戸内海石材産出諸島と附近主要仕向地(附 大谷石産地略圖)」 1926年、鉄道総合技術研究所蔵
『重要貨物情況』(第7編)より「瀬戸内海石材産出諸島と附近主要仕向地(附 大谷石産地略圖)」
1926年、鉄道総合技術研究所蔵

残念ながら、石の街の「地域軌道・軽便鉄道網」は、1964年(昭和39)に全線が廃止されてしまいましたが、その名残りは、かつての沿線を辿ると、随所で散見され、

立岩駅跡|2016年|宇都宮市大谷町 撮影=宇都宮美術館「石の街うつのみや」展 調査・撮影チーム (C)Utsunomiya Museum of Art
立岩駅跡|2016年|宇都宮市大谷町
撮影=宇都宮美術館「石の街うつのみや」展 調査・撮影チーム
(C)Utsunomiya Museum of Art

石の街の「地域軌道・軽便鉄道網」の名残り
石の街の「地域軌道・軽便鉄道網」の名残り

かつての荒針駅|1964年(廃止直前)|宇都宮市大谷町 撮影=山田俊明 氏 (C)Toshiaki Yamada
かつての荒針駅|1964年(廃止直前)|宇都宮市大谷町
撮影=山田俊明 氏
(C)Toshiaki Yamada

鶴田の大谷石橋遺構|2016年|宇都宮市鶴田町 撮影=宇都宮美術館「石の街うつのみや」展 調査・撮影チーム (C)Utsunomiya Museum of Art
鶴田の大谷石橋遺構|2016年|宇都宮市鶴田町
撮影=宇都宮美術館「石の街うつのみや」展 調査・撮影チーム
(C)Utsunomiya Museum of Art

石を運んだ鉄路の構造物の多くは、もちろん大谷石を多用したものでした。(次回に続く)