先に路線図で概要を紹介した「石の街の鉄路」のうち、「地域軌道網」の嚆矢となる
宇都宮軌道運輸▼(設立1896年)
のレールは、その始まりから「石を運ぶ」ことを目的に敷かれ、まず
1897年(明治30)…
▼西原町(今日の桜三丁目)~(大谷街道)~荒針(現・大谷町:宇都宮市城山地区市民センター、大谷石材協同組合の所在地)
が通じます。
企業設立時の資本金は20,000円、これが開業に際して50,000円まで増額された状況を知るにつけ、「石の運搬」に寄せた地元の人々の意気込みが感じられます。出資者は、もちろん有力な石屋たちでした。
鉄路のタイプは、標準的な鉄道よりも低規格で敷設が可能――軌間は狭軌、設備も簡便な「軌道」です。動力は、レール上の車両を人間が押す「人車」で、貨物(石)用・旅客(人)用の車両がありました。この鉄路は、
1898年(明治31)…
▼荒針~立岩(現・大谷町)
▼荒針~弁天山(同)
▼荒針~大谷~風返(同)
1903年(明治36)…
▼材木町(今日の宇都宮地方裁判所の南側)~西原町
▼鶴田(今日のJR鶴田駅の北側)~西原町
と延伸されます。
これらとは別に、
野州人車鉄道▽(同じく「軌道」事業者)
もまた、
1899年(明治32)…
▽戸祭~仁良塚~新里
1903年(明治36)…
▽仁良塚~徳次郎
と北部にレールを延ばしていましたが、
1906年(明治39)…
宇都宮軌道運輸▼が野州人車鉄道▽を合併
して
宇都宮石材軌道◆(本社:材木町)
となりました。
その後、同社の資本金が250,000円(1910年)となった時点でも「軌道の設備を完成したりしも社會の進運は尚ほ一層運輸機關の改善を促して止まず。」(『宇都宮石材軌道株式會社 営業案内』より)と記され、いよいよ
1915年(大正4)…
◆荒針~鶴田
に新線――「輕便鐵道を敷設し運輸力を充實するの盛運を迎へたり。」(『宇都宮石材軌道株式會社 営業案内』より)すなわち、飛躍的な発展を遂げたのです。資本金が増額されたのは言うまでもなく、遂に500,000円に至っています。
こうして、市内から大谷へ向かう「人車軌道の旅客車」は、石を買い付けに来た人々に長閑な旅を楽しませ、その横を、石を載せた「トロッコ」(小出用貨物車)がゆっくりと通る、既に観光地としての機能を有した大谷では、石屋の歓待を受け、無事に商談の成立後、トロッコで荒針に集められた石は、鶴田行き「軽便鉄道の貨物列車」で威勢よく出荷される、という光景が繰り広げられました。
なお、トロッコは、ここで言う「地域軌道網」とは別に、石切場内の私設も多々存在し、トラック輸送の時代(1960年代以降)に至るまで重宝されています。
かつて日本各地で「地域の足」として利用された人車の旅客車は、昭和戦前には姿を消し、現在は実物を目にする機会も滅多にありません。しかし、神奈川県湯河原町の和菓子店「味楽庵」を訪れると、大谷に先立ち、熱海~吉浜(1895年)~小田原(1896年)に開業した豆相人車鉄道の復元模型が展示されており、どのような車両だったのかを偲ぶことができます。(次回に続く)