人物略歴の初回で記したように、マックス・ヒンデル(1887~1963年)の来日は1924年(大正13)3月、すなわち関東大震災(1923年)から半年後のことです。最初の三年半は北海道の札幌、それから神奈川県横浜市へ移ったので、東京・横浜圏の震災復興は進行中でした。法律の改正で構造体に煉瓦が使用できなくなったため(建造物めぐり⑤横浜クライスト・チャーチ初代・二代・三代礼拝堂 参照)、札幌・横浜時代を通じて実践した木造を別にすると、ヒンデルは鉄筋コンクリート造(RC造)を積極的に採用しています。
それでもなおヒンデルは、本修道院において煉瓦に対する温故知新のこだわりを見せました。
明治末に建造が始まり、1913年(大正2)の完成を経て、1925年(大正14)に焼失した初代本館・聖堂の姿を蘇らせたのです。ちなみに司祭館は火災の難を逃れ、竣工時と変わりません。
フランス積の煉瓦の壁に半円アーチの窓が規則的に並ぶ本館は、切妻屋根の中央と左右、司祭館については寄棟屋根の中央、それぞれの南西側のみ丸窓のドーマー(小屋根付窓)が設けられ、二つの建造物の正面性を示します。ともに2階建で、軒の高さが等しく、一見したところ純然たる煉瓦造の印象を与えます。
ところが中庭を囲んでロ字形の平面を呈し、南西棟の中央ドーマー下に円形アーチの玄関を有する本館は、実はRC造の躯体に古い煉瓦を積む工法によります。
本館の北西棟は聖堂で、建物群のなかで唯一、内陣側の壁が半円形の曲面を描きます。
その北西には、左右にコリント式の付け柱を二本ずつ添え、簡素なペディメントを戴くポーチを有する一階建の棟が接続し、聖堂とともに、煉瓦の壁にRC柱の補強が入れられました。この部分は禁域(ラテン語でクラウストラ)と呼ばれ、ポーチのある棟と、聖堂の間には高い煉瓦塀が築かれ、敷地の南西に向かって伸びています。塀の建物寄りに設けた白い門は、神と人々への奉仕に一生を捧げることを志願し、入会が許された者が潜る門にほかなりません。
さらに北西に位置する司祭館は、本館・聖堂とは完全に分節され、ポーチや屋根のかたちが異なります。
建物群の様式はロマネスクを基調とし、鋭角なドーマーはゴシックに通じる意匠です。用途が修道院のため、西洋中世の教会建築が備える精神性のうち、戒律と禁欲、静謐や簡素の要素が顕在化され、それを煉瓦で表現したと言えるでしょう。ヒンデルが設計を担った際も、この点を尊び、本来の姿を再建する方針としました。言い換えると、本修道院においては、煉瓦に刻まれた歴史の近代的な保存・継承方法にヒンデルの手腕が活かされたのです。
一方、聖堂の北東にあった六角形の細い尖塔を南西に移し、八角形で存在感のあるものに造り替えたのはヒンデルの創意の賜物です。内陣側の外壁、小屋根の下に聖女ジャンヌ・ダルクの彫像が設置されたことで、再建後は南西側の正面性や、建物群の象徴的な意味合いが増しています。
トラピスチヌ修道院二代本館・聖堂、司祭館の建造物概要
●今日の名称(所在地)
天使の聖母 トラピスチヌ修道院本館・聖堂、司祭館(北海道函館市上湯川町)
●年代
司祭館:聖別1913年(大正2)
二代本館南西棟・聖堂:聖別1927年(昭和2)
二代本館北東棟、南西応接棟:竣工1930年(昭和5)
●設計・施工者
マックス・ヒンデル(二代本館・聖堂、南西応接室設計)、川原石太郎(同施工)
●工法・構造
司祭館:煉瓦造2階建
聖堂:煉瓦造1階建、鉄筋コンクリート柱による補強、塔屋付
上記以外:鉄筋コンクリート造・煉瓦積2階建
●様式
ロマネスク・ゴシック・リヴァイヴァル
●教派
ローマ・カトリック教会(厳律シトー会)