一つの建造物には、別の建物の記憶が刻まれることがあります。日本の神社仏閣・世俗建築でも珍しいことではなく、建材の下賜、建具の継承などにより、それらから建造物にまつわる驚くような歴史を辿ることができます。
宇都宮聖約翰教会礼拝堂(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂)の場合、幸いにして1933年(昭和8)5月22日の聖別以来、屋内外の主要な部分が大きく変わっていないため、この建造物に秘められた別の建物の記憶もそっくり残されてきました。
本礼拝堂の概要については、建造物めぐり②で記しましたが、そのなかで挙げた平面図を、近代における聖公会の礼拝堂に固有な空間配置という観点で整理すると、以下の通りとなります。
その基本は、内陣(至聖所・内陣)と身廊(会衆席)から成る細長い長方形に、翼廊部の短い長方形が直交する十字架形平面(バシリカ)です。両者が重なり合う交差部は、内陣と身廊を明確に分かち、翼廊が二つともあれば、完全なラテン十字となります。そして、どちらかの翼廊の内陣寄りに礼拝準備室が置かれます。
ところが立地条件、敷地の形状、既存の施設・植栽との関係で、翼廊が一つだけのこともあり、塔屋の位置はさまざまに異なります。一方、玄関は必ず身廊の最後部に人々を導くよう配されます。
宇都宮に関しては、翼廊が一つで、塔屋はポーチ、玄関間を兼ねています。上林敬吉が設計に携わった礼拝堂では、決して珍しくありません。しかし、小礼拝堂の位置、すなわち身廊の最後部側の建物端部は注目に値します。というのも小礼拝堂は通常、内陣に近い場所にあるからです。
たとえば、ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ(基本設計)と上林敬吉(実施設計)が手がけた昭和初期の礼拝堂群のなかで、最も年代が早い浦和諸聖徒教会二代礼拝堂(現・日本聖公会 浦和諸聖徒教会礼拝堂、聖別1928年)は、完全なバシリカを呈し、小礼拝堂の位置が内陣寄りでした。
[注]1972年(昭和47)の減築で小礼拝堂、塔屋が消滅し、ポーチは奥行が浅くなりました。
やはりバーガミニと上林の共作の一つ、聖オーガスチン教会礼拝堂(現・日本聖公会 高崎聖オーガスチン教会礼拝堂、聖別1929年)も、当初案(1927年)はよく似ています。
[注]実施設計では小礼拝堂がなくなり、礼拝準備室は塔屋の中に組み込まれ、ポーチ、玄関間の位置も異なります。
バーガミニと上林の礼拝堂群は、いずれも大規模ではなく、空間配置に類似性が見られ、小礼拝堂を有さないものがほとんどです。上林の単独設計による宇都宮の事例は、これらの延長線上にありながら、あえて内陣から離れた場所に小礼拝堂を築いています。
その理由は、小礼拝堂の祭壇背後の漆喰壁に嵌めた古い木製リアドス(背障)の継承にありました。しかも内陣・身廊部の南東側には、今も枝を張る大きな藤が生えており、翼廊と、その内陣寄り(本来の位置)に小礼拝堂を置くのは困難でした。
[下図]尖頭アーチ形の枠と挽物の脚部、透かし彫りのパネルから成る部分がリアドスです。
これほどまでにして伝えられたリアドスは、大阪の聖救主教会(1882年発足)から川口基督教会(1891年発足、現・日本聖公会 川口基督教会)、さらに奈良の田原本聖救主教会(現・日本聖公会 田原本聖救主教会)初代礼拝堂(1895年聖別)を経て宇都宮に移設されています。言い換えると、四つの教会の150年の記憶をとどめる事物にほかなりません。
[下図]聖救主教会は、大阪の伝統的な町家の中に礼拝堂がありました。
聖救主教会は、1891年(明治24)に聖テモテ教会(大阪)と合併し、後者の所在地(大阪府大阪市西区川口)で川口基督教会(現・日本聖公会 川口基督教会)となりました。川口基督教会は1919年(大正8)、二代礼拝堂に建て替わります。田原本聖救主教会(現・日本聖公会 田原本聖救主教会)の初代礼拝堂は、宇都宮の新築と同じ1933年(昭和8)に改修されたため、その際に貴重なリアドスを譲り受け、上林が実施設計に活かしたのです。
こうして小礼拝堂は建物の北東端に配され、リアドスとその記憶が生き長らえるとともに、当時の礼拝堂の設計手法に歴史的な事物の活用があったことも窺い知ることができます。
[下図]透かし彫りの図案や造りには、アーツ・アンド・クラフツ運動の趣が感じられます。