「他山の石」とは、「(良きにせよ悪しきにせよ)他人の言動を、自身の切磋琢磨や反省の手本とすること」を意味することわざです。その語源は、「他の土地の石であっても、これを砥石とし、自らの玉を磨くのに役立てよ」という古代中国の詩に求められます。
本展では、宇都宮の「大谷石」の特質に迫るために、まさに「他山の石」を調査し、各種の岩石・石材標本を並べることも意図しており、こうした他の地域の石は、もちろん「良きサンプル」「優れたライヴァル」として展示に登場します。但し、今回の場合、あらゆる「他山の石」ではなく、展覧会のテーマとして掲げる大谷石と同じ凝灰岩、それも近代建築史の文脈で重要なものに絞りました。
明治政府の全国石材調査
自然と四季の豊かさで知られるわが国は、実は岩石の種類も豊富であり、石材としての利用は、思いのほか長い歴史を有します。しかし、その全容が分かったのは近代――大正時代になってからでした。これは、近代国家の顔となる「国会議事堂」を計画するに当たり、明治政府が網羅的に進めた調査の成果です。今日、私たちが知る国会議事堂
http://www.sangiin.go.jp/japanese/taiken/bochou/kengaku.html
は、1920年(大正9)に着工、完成まで16年を要し、竣工は1936年(昭和11)で、計画そのものは、1886年(明治19)に遡ります。これに伴う木材・石材の調査が行われたのは、明治末から大正初めのことでした(1908~12年)。
調査結果は『本邦産建築石材』(1921年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970685
にまとめられ、全国の花崗岩、片麻岩、閃緑岩、斑糲岩、石英斑岩、石英粗面岩、安山岩、輝緑岩、玄武岩、玢岩、片岩、砂岩、粘板岩、凝灰岩、大理石について、産地と特性、産出量や出荷方法、化学的・物理的試験の結果などが、豊富な図版とともに紹介されています。現物(サンプル)も集められましたが、その多くは、関東大震災や第二次世界大戦、自然の劣化により失われてしまいました。とは言え、その一部は大切に残され、現在、国立科学博物館が所蔵しています。
石川県の凝灰岩
このような大掛かりな「石調べ」をひもとくと、わが街の大谷石が、さまざまな観点で傑出していたことは疑いようもなく、と同時に、注目すべき「他山の石」が何であったのかも、つぶさに知ることができます。
その一つが、種別は「凝灰岩」に分類され、「水田丸石」「瀧ヶ原石」「菩提石(蜂ノ巣)」の名称を冠する石川県産の石材でした。産地は、当時の記載は「石川県江沼郡東谷口村・那谷村」、現在の「石川県加賀市・小松市」に相当する県南東部の山間です。三種のうち、現在も採掘が行われているのは「瀧ヶ原石」(滝ヶ原石)
http://arayasyouten.jimdo.com/
だけですが、いずれの石材も、大谷石に似た・大谷石にはない特徴を示し、緻密で白い「水田丸石」とすべすべした青緑の「瀧ヶ原石」は、北陸地方の建材として流通したことが『本邦産建築石材』に詳しく記されています。
また、本書の増補改訂版に当たる『日本産石材精義』(1931年)を見ると、その頃の「瀧ヶ原石」の石切場が大規模だったことも、写真に窺い知れます。
那谷寺のその向こうに
ちなみに、これらの石川産凝灰岩のなかで、最も不便な場所に産し、値段も高かった「菩提石」については、希少さも手伝って、東京・大阪で珍重されたことが分かっており、その「顔つき」も特異な石材でした。――赤褐色・褐色で、無数の穴が空いているのです。そして、意外なほど固くて緻密です。
先に挙げた「水田丸石」「滝ヶ原石」の産地を含む(現在の)加賀市・小松市の山裾には、密度の高いものから多孔質のものまで、多様な凝灰岩を見ることができ、後者のタイプを名勝「遊仙境」「琉美園」とするのが、二つの地域の間に位置する那谷寺(小松市那谷町)
に他なりません。那谷寺を訪れると、赤み・黄味を帯びた穴だらけの奇岩霊石がそそり立ち、何故か私たちが良く知る大谷の自然石を彷彿とさせます。
この那谷寺から南西へ2kmほど山に入ったところに、大谷石と不思議な因縁があり、「幻の石材」と呼ばれて来た「菩提石」の集落(小松市菩提町)が位置しているのです。…興味深いこのトピックは、次回へと続きます。