上林敬吉と日本聖公会京都教区
1884年(明治17)、京都府京都市上京区の京都御所蛤御門付近で生まれた上林敬吉は、米国聖公会のレイ・ミッショナリー(非聖職宣教師)で建築家のジェームズ・マクドナルド・ガーディナー、その影響で受洗した母を通じて小学校時代から聖公会と、教会に関わる洋風建築に触れました。
1896年(明治29)に高等小学校を中退すると、程なくしてガーディナーとともに東京へ移ります。以降、茨城県水戸市、神奈川県横浜市を経て東京を活動・居住地としますが、出身地の京都、並びに日本聖公会京都教区とは、聖公会の人脈のなかで、深い縁を持ち続けました。
よって京都教区には、上林はもとより、彼をめぐる人々が携わった聖公会の施設がいくつも建造されました。これにはジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニとの共作としては最も西に所在し、年代的にも遅い福井聖三一教会礼拝堂(現・日本聖公会 福井聖三一教会礼拝堂)が含まれます。
福井聖三一教会礼拝堂
1932年(昭和7)の聖別から13年を経て福井空襲で焼夷弾の砲火を浴び(1945年)、その3年後にマグニチュード7.1の福井地震に見舞われた(1948年)本礼拝堂の現在の姿は、当初の建物の遺構に基づく震災後の復元です。
屋根を支えるトラスなど簡略化された内部の造作や、家具は本来のものではありません。
しかし内陣が東(東南東)に位置し、ポーチを兼ねる塔屋は西(西北西)を向き、これらの間に単廊式の身廊を擁する平面と、鉄筋コンクリート造の躯体は竣工時のままです。南(南南西)翼廊として張り出す礼拝準備室、集会などに使われてきた玄関左の小空間についても同じことが言えます。
この形式の平面は、バーガミニと上林の協働による礼拝堂群のなかでは「一直線形の標準化スタイル」に相当し、建造時期が先行する盛岡聖公会二代礼拝堂(現・日本聖公会 盛岡聖公会礼拝堂)の発展形と評すことができます。
盛岡ではバーガミニの基本設計が応接室(玄関右)を欠いたので、上林の手で実施設計に組み込まれました。一方、福井の場合、教会活動の便宜に鑑みた小空間(玄関左)は後付けではありません。よって塔屋と小空間は、構造も意匠も一体的です。
玄関扉周りの飾り迫縁が四折三重で、3層目にゴシック・アーチ(尖頭アーチ)の窓が二つあり、四隅に水切りが四段の控え壁を付し、王冠状の頂部を戴く塔屋は、盛岡によく似ています。
しかし福井においては、小空間西(西北西)側面の二つの尖頭窓の上に、鋭角なペディメントが築かれ、塔屋2層目の矩形窓も二つ設けられましたた。これらは、重厚で象徴性が強い塔屋と、実用を担う従属的な小空間の調和を図るための工夫として良いでしょう。
福井聖三一教会礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
日本聖公会 福井聖三一教会礼拝堂(福井県福井市春山)
●年代
聖別1932年(昭和7)
●設計・施工者
ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ(基本設計)、上林敬吉(実施設計)、戸田組(施工)
●工法・構造
鉄筋コンクリート造平屋建、3層塔屋付
●様式
モダン・アングリカン
●教派
聖公会