ガーディナーと日光
ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの生涯と、明治初期から居留外国人の避暑地として知られた日光(栃木県日光市)の結びつきは深いものがあります。
[下図]神仏習合の聖地・日光は石材も産し、日本独自の石の建築文化が見られます
ガーディナーが当地を初めて訪れたのは1881年(明治14)、のちに妻となるフローレンス・R・ピットマンに誘われてのことです。当時、ガーディナーは立教学校校長、フローレンスは立教女学校教師で、ともに米国聖公会のレイ・ミッショナリー(非聖職宣教師)として教育活動に携わっていました。
翌年に二人は東京で結婚し(1882年)、1880年代末(明治20年代初め)以降は毎夏、家族で日光に逗留するようになります。寄宿先の天台宗安養院敷地内(日光市山内)において、聖公会の祈祷も捧げられました。
初めての礼拝堂は日光町入町西谷(日光市安川町)に建てられ、1899年(明治29)の聖別時に変容貌教会と命名されます。ガーディナーの設計により、避暑で集う米英の人々に供する簡素な木造建築でした。
その後、夏期のみ宇都宮聖公会講義所(のち宇都宮聖約翰教会)が教会を管理し(1904年)、日光変容貌教会(1905年)を経て、日光真光教会の発足(1909年)に至ります。1910年(明治43)には、宇都宮のアイリーン・ポーター・マン婦人宣教師(米国聖公会)が日光の兼任も務め始めました。
日光真光教会礼拝堂
日光で教会の体制が整った頃、ガーディナーは伝道局を退き(1908年)、建築設計を専業とする文化人として名を馳せていきます。
それでもなお、米国聖公会が本礼拝堂をガーディナーに依頼したのは、彼と日光の縁に鑑みてと考えて良いでしょう。所員の上林敬吉も経験を積んで設計主任となり(1911年)、この礼拝堂を担当します。
東(東北東)に置かれた内陣、壁龕状の浅い北(北北西)翼廊、礼拝準備室と塔屋が一体化した南(南南東)翼廊、単廊式の身廊、道路に面するポーチで構成される平面は、のちに上林が展開するモダン・アングリカンの礼拝堂群に似ています。ノルマン風の堂々とした塔屋も同様です。
一方、鋭角な切妻屋根、太い控え壁、大きなステンドグラスなどは、ガーディナーらしさの表れ、アングリカン・ゴシック・リヴァイヴァルの特徴を示します。
神仏習合の聖地、その深遠な森に抱かれる場所で礼拝堂を建てるに当たり、ガーディナーは躯体に日光石(地域産の安山岩)、内張りに板橋石(同・凝灰岩)を選びました。このことは注目に値し、材の調達や、技術的な観点からではなく、日光だからこそキリスト教の訴求と、教会建築の真髄を示すべく、西洋中世の大聖堂に倣う石造としたのは疑いようもありません。
[下図]本礼拝堂では重厚な黒い日光石(左)と、軟らかで白っぽい板橋石(右)が併用されました
時あたかも1915年(大正4)秋には東照宮三百年祭が開催されました。これに間に合うよう国内外の来訪者の耳目を引く建築を目ざし、前年秋に起工となり(1914年10月)、冬を徹して石工が材の加工に注力しています。
基礎はコンクリート造で、石の凍結が生じない春に組積が始まり、開堂は秋口でした(1915年9月)。聖別式を挙げたのは、さらに1年を経た1916年8月のことです。
[下図]東照宮三百年祭に合わせた開堂時は塔屋が工事中でした
1923年9月に起こった関東大震災の際、ガーディナー一家は日光に滞在中のため、難を逃れています。
そして震災復興中の1925年(大正14)11月25日、ガーディナーは東京の聖路加国際病院で逝去し、同月27日に日光の本礼拝堂に葬られました。
フローレンス夫人が亡くなったのは1930年(昭和5)3月26日で、同じくこの礼拝堂内に眠ります。
日光真光教会礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
日本聖公会 日光真光教会礼拝堂(栃木県日光市本町)
●年代
聖別1916年(大正5)
●設計・施工者
ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー(設計)、上林敬吉(担当所員)、相ケ瀬森次(石工棟梁)ら職人集団(施工)
●工法・構造
日光石造平屋建、内部板橋石張、3層塔屋付
●様式
アングリカン・ゴシック・リヴァイヴァル
●教派
聖公会