二つの教会の歩み③1910~1933年

二つの教会の歩み③1910~1933年 作成:church2023.jp

1910年代~1930年代初め(明治40年代~昭和初期)は、二つの教会の発展期に当たります。まず宇都宮聖公会講義所(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会)は所在地が移転しました。そして昭和初期には、今日、カトリック松が峰教会聖堂日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂として知られる名建築が現れたのです。

宇都宮聖公会講義所の西原町移転と仮礼拝堂兼園舎

 1910年(明治43)、宇都宮聖公会講義所は宇都宮市西原町(宇都宮市桜の現在地)へ段階的に移転しました。5月に米国聖公会のアイリーン・ポーター・マン婦人宣教師が宣教師館、9月には伴君保司祭一家が司祭館へ移り住みます。翌年になると、日本聖公会により、宇都宮聖約翰教会への改称が認められました。
 名称・所在地の変更届を栃木県に提出した1912年(明治45)5月には市内初の幼稚園、愛隣幼年園(現・学校法人聖公会北関東学園 認定こども園愛隣幼稚園)が開設され、6月1日から保育が始まります。そして元号が大正に変わった同年11月10日、宇都宮聖約翰教会仮礼拝堂兼園舎(現・愛隣幼稚園大谷石園舎)の聖別式が行われました。

※「約翰」は「ヨハネ」と読みます

宇都宮聖約翰教会仮礼拝堂兼園舎(愛隣幼年園第一回卒園式記念写真)1913年撮影 所蔵・画像提供:日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会

 この建物は大谷石組積造の和洋折衷な造りで、長方形平面の北西端に内陣、これに単廊式身廊が続き、南東端にはポーチと玄関間が張り出していました。内陣・身廊部と、ポーチ・玄関間を瓦葺の切妻屋根が覆い、側面に並ぶガラス窓は細長い矩形の上げ下げ式です。
 ポーチの開口部は半円アーチ形、玄関扉の上部に半円形のガラスを嵌め、妻壁に設えた同じ形状のペディメントで囲まれます。黒い瓦屋根は和風で、大棟などの要所に漆喰を施し、ポーチ頂部の鬼瓦は十字架図案の特注でした。

(左)宇都宮聖約翰教会(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会)仮礼拝堂兼園舎の鬼瓦(現・学校法人聖公会北関東学園 認定こども園愛隣幼稚園大谷石園舎の壁に移設・保存)2022年撮影(右)同・仮礼拝堂兼園舎(現・愛隣幼稚園大谷石園舎)2014年撮影 撮影:ともにchurch2023.jp

松峯町の二代聖堂と西原町の礼拝堂

 その後、二つの教会は着実な発展を遂げ、それぞれの教派の栃木県における中心として位置づけられます。地域の社会福祉にも貢献しました。昭和戦前を迎えると、世の中は昭和恐慌(1930~1931年)に見舞われますが、不況から脱しつつあった年代に、どちらの教会も新しい聖堂、礼拝堂の建造に取り組みます。
 宇都宮天主公教会(現・カトリック松が峰教会)は、この教会の設立者イッポリト=ルイ=オーギュスト・カディヤック司祭東京大司教区司教代理兼務)が願った「よそから人が見にくるような」「(フランスの巡礼地)ルルドのような」立派な聖堂がマックス・ヒンデルの設計で進められます。着工はカディヤック司祭が帰天した翌年の1931年(昭和6)7月、聖別式は1932年(昭和7)11月23日でした。

宇都宮天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)[左]建築工事 1931年撮影『下野新聞』1931年12月27日号 宇都宮:下野新聞社 所収 所収文献所蔵・画像提供:下野新聞社[右]地階正面入口(竣工当時の扉)1979年撮影 撮影・画像提供:角 幸博 氏(北海道大学名誉教授、歴史的地域資産研究機構代表理事)

 これに対して宇都宮聖約翰教会(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会)の場合、信徒の側から新礼拝堂を望む声が上がり、1929年(昭和4)以降、人々は資金調達に動きます。信徒建築家の上林敬吉が実施設計に着手したのは1932年(昭和7)秋で、1933年(昭和8)5月22日に聖別式を挙げています。

※両者の建築的な特質については、建造物めぐり①宇都宮天主公教会二代聖堂の概要と見どころ②宇都宮聖約翰教会礼拝堂の概要と見どころ③二つの教会のディテールと石づかい⑬宇都宮天主公教会二代聖堂の記憶⑭宇都宮聖約翰教会礼拝堂の記憶をご覧ください

[左]宇都宮天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)塔屋とポーチ 2016年撮影[右]宇都宮聖約翰教会礼拝堂(現・日本聖公会 宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂)塔屋とポーチ 2022年撮影 撮影:ともにchurch2023.jp