大正末期から昭和初期の上林敬吉
1925年(大正14)11月25日にジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが東京で亡くなった際、上林敬吉はガーディナー事務所の設計主任でした。事務所がガーディナー邸内にあり、進行中の案件をいくつも抱えていたので、上林の直近の課題は仕事場を別の場所へ移し、実施設計と監理現場を引き継ぐことにありました。結果、自身の事務所を起ち上げ、同じ住所でガーディナー事務所名義の仕事を継承するに至ります(1925年12月初め頃、遅くとも翌年初め)。
当時の東京・横浜圏は、関東大震災(1923年9月1日)からの震災復興が始まったばかりで、キリスト教界も同様でした。
関東大震災の被害を報じる米国聖公会広報誌の記事
そのために来日したのがジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニで、米国聖公会伝道局の意向により、上林の事務所を拠点に両名の協働が開始した状況は、人物略歴④で記した通りです。こうしてバーガミニと上林は日米の聖公会の需要に応え、復興礼拝堂とは別に、地方の伝道拠点に供する鉄筋コンクリート造の新しい礼拝堂群を次々と手がけました。標準仕様に則るこれらの礼拝堂群のうち、最初期の事例の一つが浦和諸聖徒教会二代礼拝堂(現・日本聖公会 浦和諸聖徒教会礼拝堂)です。
浦和諸聖徒教会二代礼拝堂
竣工時の本礼拝堂は、東西に長い建物の東に内陣(ヨーロッパから見たエルサレムの方角)、西に単廊式の身廊があり、両者を分かつ南北軸の北に塔屋、南に翼廊が張り出し、それぞれの東に小礼拝堂(内陣の北)、礼拝準備室(内陣の南)を有する十字架形平面(バシリカ)でした。
つまり、決して大規模な礼拝堂ではないものの、西洋中世の聖堂を手本とし、その基本を崩さぬよう縮小・簡略化した空間配置だったのです。
会衆席は身廊中央の通路左右に配されます。これに対面する内陣は身廊より間口が狭く、床の高さが三段上です。内陣の手前には左に説教壇、右に聖書台を置き、後方の左右は共唱席となっています。
さらに床を一段上げた最奥、至聖所の中央壁際に祭壇を設え、オックスフォード運動(1833年に始まる英国聖公会の信仰復興運動)を経て19世紀後半に広まった聖公会の礼拝堂らしい造りを呈します。
側壁から立ち上がり、天井を支えるシザーズ・トラス(鋏形洋小屋)は、今でこそ明るい塗色ですが、かつては彫刻を施した腰壁、家具など、他の木部と響き合う落ち着いた色合いでした。
往年は、ノルマンの城塞胸壁を模した塔屋頂部の形状が眼を引きました。ゴシック・アーチ(尖頭アーチ)の窓、内部を分節するチューダー・アーチ(四心尖頭アーチ)は、今なお当初の設えを受け継いでいます。これらはいずれも、バーガミニと上林が編み出したモダン・アングリカンの意匠的な特徴として挙げられます。
しかし1972年(昭和47)における道路の拡張に伴い、礼拝堂の北側が減築を余儀なくされました。小礼拝堂と塔屋が消滅し、身廊北西に位置するポーチは奥行の浅いかたちに改修されたのです。
[下図左]小礼拝堂だった部分は自転車置場、塔屋の名残は象徴的な高い壁となりました
浦和諸聖徒教会二代礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
日本聖公会 浦和諸聖徒教会礼拝堂(埼玉県さいたま市浦和区仲町)
●年代
聖別1928年(昭和3)
●設計・施工者
ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ(基本設計)、上林敬吉(実施設計)、坪谷熊平(施工)
●工法・構造
鉄筋コンクリート造平屋建、竣工当時は3層塔屋付
●様式
モダン・アングリカン
●教派
聖公会