二人の建築家の二つの病院
本展の主役を務める二人の建築家、マックス・ヒンデルと上林敬吉は、それぞれが縁の深い二つの教派のために新しい病院を設計しています。二つの病院は同時代の東京に現れ、どちらも鉄筋コンクリート造の大規模なモダニズム建築だった点で注目に値します。
[下図]世界の近代建築史では、アルヴァ・アアルト設計の本サナトリウム(フィンランド)が同時代の病院建築として話題を呼び、1933年(昭和8)に竣工しました
ヒンデルの場合、国際聖母病院(現・社会福祉法人聖母会 聖母病院)第二期増築(竣工1934年)が日本における最後の仕事となりました。
[下図]設計はマックス・ヒンデルにより、1931年(昭和6)に開院しました
これに対して上林は、聖路加礼拝堂(聖別1936年。現・聖ルカ礼拝堂)の現場監理、聖路加国際病院(現・学校法人聖路加国際大学)増築部分(奉献1961年)の実施設計(1937年以降)に携わったのみならず、同病院の理事会指名建築家(1937年)を経て営繕課長(1938年以降)に着任します。さらに、現役の信徒建築家としての生涯を当院で終え、その葬儀は本礼拝堂で行われました(1960年)。
[下図]全体構想から増築設計まで、アントニン・レーモンド、ヤン・ヨセフ・スワガー、ベドジフ・フォイエルシュタイン、ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ、上林敬吉が関わり、病院・学校の奉献は1933年(昭和8)、礼拝堂の聖別が1936年(昭和11)、外来棟の完成は戦後の1961年(昭和36)でした
よって両名とも、キリスト教の精神に基づく近代的な病院建築が業績の集大成になった、としても過言ではありません。
Ⓐ国際聖母病院
マリアの宣教者フランシスコ修道会の献身
ローマ・カトリック教会が進めた医療・社会福祉事業のうち、マリアの宣教者フランシスコ修道会を母体とする施設は各地で具現化されました。
1898年(明治31)に遡る最初の施設は、熊本県飽託郡花園村(熊本市)のハンセン病診療所、慈善診療所、孤児院で、待労院診療所、琵琶崎聖母慈恵病院(現・医療法人聖粒会 慈恵病院)、琵琶崎聖母愛児園に発展を遂げます。その後、熊本県(人吉市)、北海道(札幌市・北広島市)でも、保育所(現・学校法人ステラマリス学園 人吉幼稚園)、診療所(現・社会医療法人母恋 天使病院)、孤児院(現・社会福祉法人聖母会 児童養護施設天使の園)の設立に至っています。
1928年(昭和3)にはジャン=バプティスト=アレクシス・シャンボン東京大司教(パリ外国宣教会)がマリアの宣教者フランシスコ修道会の招致に動き、東京府豊多摩郡落合町大字下落合(東京都新宿区中落合)で修道院が発足すると(1929年)、病院新設の拠点となりました。
国際聖母病院
1931年(昭和6)に竣工・開院したこの病院は、聖堂、修道院、司祭館、幼稚園、学校、大学などの設計を通じてヒンデルが培った知見に基づき、施設のあり方に応える優れた近代建築と評せます。
今日の聖母坂通りに沿い、南北に長い敷地の最北に建つ本館は、西棟と南棟から成るL字形平面の近代的なビルヂングが採用されました。二つの棟は直角に連なり、その接合部の内側、すなわち建物の正面にもL字形の空間が付随します。
外来のある1階は、この部分に庇を架けてポーチとし、地階から屋上までエレベーター、塔屋には階段が通じていました。地階はルスティカ仕上げの石張、1階以上が簾煉瓦張という外観は、上智大学二代校舎(現・上智大学1号館)に準じる仕様です。
利用者、施療・看護者に対する配慮、施設管理の観点から、ヒンデルが得意とする空間のセットバック、スキップ・フロアは採用していません。その代わり、手前に張り出す両棟の接合部、その上に聳える八角屋根の双塔、屋上の高いパラペット下に設けた庇により、立面の意匠的な工夫が図られました。
竣工時は3階の一部を修道院に供し、のち2階と同じく病室になりましたが、当初から採光、通風に鑑みて大きな窓を数多く並べ、外気浴のためのバルコニー、平時と緊急用の外階段も完備しています。
これらの実際的な設えが寒々しく見えないのは、塔屋の屋根が丸みを帯びた帽子形で、3階の窓に円形アーチを用いたからです。いずれも、ロマネスクの建築言語の巧みな転用にほかなりません。
国際聖母病院の建造物概要
●今日の名称(所在地)
社会福祉法人聖母会 聖母病院本館(東京都新宿区中落合)
※第一期・第二期増築は現存せず
●年代
聖別・開院1931年(昭和6)
第一期・第二期増築竣工、付属聖堂聖別1934年(昭和9)
●設計・施工者
マックス・ヒンデル(設計)、宮内初太郎(施工)、山村力松(第一期・第二期増築施工)、松本敏之(第二期増築施工)
●工法・構造
鉄筋コンクリート造地下1階(半地下)・地上3階建、屋上に塔屋付(双塔)
●様式
モダニズム
●備考
ローマ・カトリック教会の病院
Ⓑ聖路加国際病院、聖路加礼拝堂
聖バルナバと聖路加
聖公会における医療事業の取り組みは、アメリカ、イギリス、カナダから来日した組織や個人が設けた施療所、療養所に始まり、やがて施設の整備に力が注がれました。
このうち米国聖公会は、1873年(明治6)にヘンリー・ラニング宣教医師が大阪の古川(大阪市西区川口)で米国伝道会社施療院を開き、10年後には聖バルナバ病院(現・公益財団法人聖バルナバ病院)となります(1883年)。
東京では、愛恵病院(1890年)、築地病院(1896年)の後継として、1901年(明治34)、ルドルフ・ボリング・トイスラー宣教医師により、築地(東京都中央区明石町)に聖路加病院(1917年に聖路加国際病院と改称。現・学校法人聖路加国際大学)が開設され、成功を収めました。
聖路加国際病院、聖路加礼拝堂
関東大震災(1923年)ですべての施設を失ったのち、この病院の復興・再建には複数の建築家が関与し、初期段階から複雑な経緯を辿ります。
まず1925年(大正14)、アントニン・レーモンドが示した全体構想は、十字架形平面の南南西と長い両翼に病院、北北東に礼拝堂を置き、看護学校その他の機能を両翼の接続棟に組み込む近代的なビルヂングで、この考え方は以降も受け継がれました。
しかし翌年になると、レーモンドと、トイスラー病院長(並びに米国聖公会)の対立が表面化し(1926年)、レーモンド事務所の意匠担当ベドジフ・フォイエルシュタイン、構造担当ヤン・ヨセフ・スワガーは病院側に与します。
結果、1928年(昭和3)の着工後にレーモンドが解約となり、意匠の見直し、礼拝堂の実施設計は教派のミッション・アーキテクト(宣教建築家)、ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニに一任されました。
よって着工当時のドローイングと、1933年(昭和8)に竣工・開院した病院の外観は異なります。レーモンドの案は先進的モダニズムを標榜し、塔屋の形状が摩天楼を思わせました。
ところが病院側はこれを良しとしなかったので、バーガミニの手でロマネスクを意識した意匠に変更されています。
1936年(昭和11)に聖別された礼拝堂についても、配置・構造の基本は当初の構想と変わりません。すなわち、北北東に内陣を置き、南南西の入口側が病院の主棟と一体的で、礼拝堂の玄関間と主棟の正面玄関を廊下で直結させ、主棟2~5階の礼拝堂側に内陣・会衆席を望むギャラリーを設けるというものです。
一方で意匠は、バーガミニが「聖公会らしいモダニズム建築」にまとめ、上林は現場監理を担いました。
開院時の病院の姿は完成形ではなく、米国聖公会としては、西北西翼に連なる中層棟、正面玄関から南南東に張り出す低層棟を増築する計画がありました。
これらの実現に向け、1937年(昭和12)になると、病院理事会がスワガーと上林を外来棟・事務部新築の建築家に指名します。こうして実施設計が進められたにも拘らず、日中戦争の勃発で計画が延期となり、戦後は病院が米軍に接収されました(1945~1958年)。
[下図]点線で示された箇所が増築計画に引き継がれました
上林が病院の営繕課長に着任した1938年(昭和13)、バーガミニが離日し、3年後にスワガーも日本を去ります(1941年)。
大正末期から昭和戦後に及ぶ大事業を締め括る外来棟が奉献されたのは、上林が本院で逝去した翌年の1961年(昭和36)のことでした。
聖路加国際病院、聖路加礼拝堂の建造物概要
●今日の名称(所在地)
学校法人聖路加国際大学、聖ルカ礼拝堂(東京都中央区明石町)
●年代
病院・学校竣工1933年(昭和8)
礼拝堂聖別1936年(昭和11)
外来棟竣工1961年(昭和36)
●設計・施工者
アントニン・レーモンド+ヤン・ヨセフ・スワガー+ベドジフ・フォイエルシュタイン(全体構想・基本設計)、ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニ(実施設計)、スワガー+上林敬吉(増築部分実施設計)、清水組(施工)
●工法・構造
病院・学校は鉄筋コンクリート造6階建、屋上塔屋付
礼拝堂は鉄筋コンクリート造4階建、内部抗火石張
●様式
モダニズム(礼拝堂内部はモダン・アングリカンを基調とする)
●備考
聖公会の病院